労使協議制
ろうしきょうぎせい
joint consultation system
労使協議制は、時代や国によって、機能、組織、運営方法は異なっている。公約数的に定義を行うと、労働者が、団体交渉とは区別される労使間の協議の機構・組織を通して、経営・管理上の意思決定・情報伝達過程に参加することである。そこでは経営、生産問題、安全衛生、福利厚生、情報提供など従来の団体交渉では取り扱われなかった事項が協議・報告される。労使協議制は、団体交渉と異なり、争議権をもたず、協議・提案・情報提供といった限定された範囲内で行われるため、その規制力は限られたものである。歴史的にみると、労使協議制は、第二次世界大戦後の経済復興のため労使双方の融和・協力や技術革新の円滑化を図るために経営側の主導によって導入されている。経営側は、労使協議制において、経営権にかかわる事項の労働者・労働組合の意思決定過程への参加を拒否する反面、情報提供等を通して、労働者の経営側への協力を取り付けようとする。それに対して労働組合は、企業・職場レベルでの諸決定について組合の関与を強めるとともに、労使協議制においても多様な事項の決定過程への参加と主導権の確立を図ろうとする傾向がある。
[守屋貴司]
イギリスにおける労使協議制は、第一次世界大戦中、労使協力に基づく戦争遂行体制の確立のためホイットレー委員会によって、労使協議制の導入が勧告され、工場委員会として展開した。そして、第二次世界大戦から戦後にかけては、合同委員会として一定の広がりをみせた。ショップ・スチュワード(職場委員)運動の隆盛とともに、一時、衰えたが、1980年代以降、新技術の導入や競争力の増大のために、労使合同協議会として労使協議会が拡大してきた。
また、ドイツでは、ワイマール共和制下において経営協議会Betriebsratとして労使協議制が展開された。そして、第二次世界大戦後、旧西ドイツにおいて、経営組織法の制定によって労使協議制が法制化され、従業員5人以上の企業に経営協議会の設置が義務づけられることとなった。1990年以降のヨーロッパにおける労使協議制の大きな変化としては、ヨーロッパ連合(EU)統合下、ヨーロッパ労使協議会に関する指令が出され、ヨーロッパ労使協議会の法制の成立が図られてきた点がある。この指令は、EU下の一定の規模以上の多国籍企業において労使協議制度を通して情報提供、協議を促進しようとするものである。
[守屋貴司]
日本の労使協議制は、まず第二次世界大戦後、労働者コントロールに近い形で経営協議会として成立した。経営協議会は、第二次世界大戦直後の高揚した反体制運動を背景として広まった。しかし、その後、東西冷戦構造の深まりを背景としたアメリカの占領政策の転換によって、日本の戦前の経営者層の復活や経営権の確立・拡大が進み、経営協議会は解体を余儀なくされていった。経営協議会の解体後、労使協議制は、1950年代以降、日本生産性本部の主導によって普及が図られた。そして、1960年代には、技術革新導入にあたり、労使協議制は、事業所のみならず、職場レベル、企業レベルに拡大していった。1970年代以降、経営環境の激変にともない、日本生産性本部などによって「労使一体化」のための労使協議制の拡充が叫ばれてきたが、実態的に労使協議会の労働条件向上機能がさらに減退し、経営協力機能の強化のみとなり、その役割が縮小しつつある。
[守屋貴司]
『守屋貴司著『現代英国企業と労使関係――合理化と労働組合』(1997・税務経理協会)』▽『木元進一郎著『労働組合の経営参加』(1977・森山書店)』▽『伊澤章著『欧州労使協議会への挑戦――EU企業別労使協議制度の成立と発展』(1996・日本労働研究機構)』
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労使協議制 (ろうしきょうぎせい)
労使協議制は,その機能や組織や運営方法などが時代や国によって異なるため,一義的には定義しがたい。あえていえば,それは労働者がその代表組織を通じて企業の経営管理上の諸決定に発言権を行使するための制度であって,争議権を前提とする団体交渉制度とは区別されるものであるといえる。労使協議制は歴史的には,〈意思疎通型〉〈合同協議型〉など種々な形態をもって推移してきた。この制度は,第2次大戦後には広く先進資本主義国に普及した。その理由はおおむね次の二つに要約されよう。(1)国家的事情 戦後の経済危機を打開するには,労使の双方に,とにかく復興のための協力が必要であったこと,(2)環境的事情 1950年代の後半からの画期的な技術革新を円滑に実施するため,労使協議が必須の条件であることを使用者が認め,これに対し,労働組合も組合員の利益を守りつつこれを推進する必要に迫られたこと,である。ILOは,1952年と60年の2回にわたって労使協議制に関する勧告を決議した。これらの勧告では,労使協議制は〈企業体の両当事者,すなわち経営者と労働者とが対等の立場に立ち,団体交渉で取り扱われないか,または労働条件の決定について他の制度で通例取り扱われない事項であって労使双方が利害関係を共通にする事項について,協議し合って互いの理解を深め,経営側に協力を与える機能をもった制度〉としている。
日本の労使協議制の起源は1920年代,すなわち,戦前の労働組合運動の最初の本格的な生成期においてであった。当時の労働組合は,欧米で事業所レベルの工場委員会を設置する動きがあったこともあり,日本でも,労働協約を締結するとともに,労使の合同協議機関の設置を要求し,またある程度実現した。事業所レベルの労働組合組織の形成や協約の締結が困難であるため,とりあえず合同協議機関のみを設置した例も少なくはなかった。やがて大規模事業所では,労働組合と対抗するような従業員代表組織による協議的組織が形成され,普及した。しかしこれらも,戦時体制の成立によって産業報国組織に改組された。現行の労使協議制は50年代の後半に生成し,60年代を通じて製造業の大半の企業に広範に普及したが,その過程には激動の戦後史を背景とする曲折がある。第2次大戦後に成立した労使関係システムの最初の4年間は〈経営協議会〉の時代であり,その最初の2年間には,比較的多数の事例で労働者コントロールに近似する状況が存在し,また一般にも労働権優位の社会的雰囲気があった。この事情はイタリアの〈経営協議会〉時代と類似している。経営協議会は,当時高揚した反体制運動を背景として,企業の社会的構造の平等主義化を促した。しかしこの経営協議会は,イタリアにおけるそれと同じころ,同じような事情で衰退した。東西の冷戦の激化や占領政策の変化や経営側の立直り等々の事情がそれである。これに続いたのは,アメリカ・モデルの労使関係システムの導入の試みであった。このモデルは,協約的労使関係を重視する反面において,経営管理的事項については経営側の専決権に強く固執する性格のものであり,前段の経営協議会の論理と正面から対立する性格のものであった。この対立は1940年代末から50年代前半に激烈かつ長期の労働争議が多発したことの一つの原因となった。現行の労使協議制はこの時期の直後に生成した。55年に発足した日本生産性本部が西ドイツで1952年に発足した工場委員会の制度を参考にして,労使協議制の設置を提唱し,それを推進する運動を行った。同盟の前身である全労はこの運動に参加し,総評はこれに反対したが,合理化問題もあって,やがて事前協議制の要求を展開した。日本の労使協議会は,西ドイツの場合と比べると,団体協約に基づく制度であること,合理化問題や労働条件については事前協議的性格,すなわち団体交渉と接続しうることなどに特色がある。60年代の技術革新期に,労使協議制は事業所レベルのみでなく,職場レベル,企業レベル,産業レベルと多元化した。60年代には合理化に伴う調整機構という性格が強かったが,70年代には内外の経済情勢の激動もあり,経営的事項の協議を含む経営参加的性格が漸次付加されてきている。
執筆者:岡本 秀昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
労使協議制【ろうしきょうぎせい】
使用者または使用者団体と労働者団体の双方の代表が,企業の経営・生産など相互に関係ある事項について合議する制度。争議権を前提とする団体交渉とは異なる。英国のホイットリー委員会やドイツの共同決定方式および官公職員代表制などの方式がある。1960年ILO総会は公の機関と労使団体との間の協議と協力に関する勧告(113号)を行っているが,この協議制は団体交渉権を制限するものであってはならないとしている。→経営協議会
→関連項目産業民主主義
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労使協議制
ろうしきょうぎせい
joint consultation system
労働者と使用者間で,主として生産・経営などについて協議する制度。労働者側は労働組合にかぎらず,従業員代表の形をとることもある。ドイツで法制化されたものは経営参加の性格が強い。日本では企業レベルで生産・経営について労使の意思疎通をはかる場として経営協議会を設けている例が多いが,一部の基幹産業では業種レベルの労使協議会が定期的にもたれている。労働条件を必ずしも直接の対象にはせず,協議の結果を協定化して労使を拘束するとはかぎらないことから,団体交渉とは区別される (→経営参加制度 ) 。
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世界大百科事典(旧版)内の労使協議制の言及
【産業民主主義】より
…しかし20世紀に入って労働運動が社会主義の影響を強く受けるようになったため,資本家と労働者の権利のあり方の相違に対する否定的な思想が広がり,ウェッブ夫妻も含めて労働者の権利を資本家の権利に近づけるという内容で産業民主主義を理解する考え方が強まった。また労働組合運動が[サンディカリスム]の影響を受け,社会革命を目的とする傾向が生ずるに及んで,これと対抗するためにも,正常な労使関係の中で労働者の不満を平和的に解消する目的で[労使協議制]が提唱され,労働条件の交渉にとどまらず労働のあり方や経営のあり方についての労働者の発言権が拡大された。さらに,労使協議制の規模を個別企業から産業全体に拡大し,労働者代表の意見を産業内の全企業に対する共通規制や企業団体の活動にまで反映させる方策がとられるにいたった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」