デジタル大辞泉
「大橋訥庵」の意味・読み・例文・類語
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おおはし‐とつあん【大橋訥庵】
- 幕末の攘夷思想家。江戸の富商大橋家の養子。朱子学を学び攘夷論を主張。のち老中安藤信正暗殺を計って捕えられ、幽居中病死した。著「闢邪小言(へきじゃしょうげん)」「元冦紀略(げんこうきりゃく)」など。文化一三~文久二年(一八一六‐六二)
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大橋訥庵
おおはしとつあん
(1816―1862)
江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘(そんじょう)思想家。名は正順(まさより)、字(あざな)は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(しみずせきじょう)(1766―1848)の四男として文化(ぶんか)13年江戸に生まれ、日本橋の豪商大橋淡雅(たんが)(1789―1853)の婿養子となる。佐藤一斎に儒学を学び、思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。1857年(安政4)『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。安政(あんせい)の大獄に刑死した頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の遺体を収めて小塚原(こづかっぱら)回向院(えこういん)に埋葬。公武合体論による皇女和宮(かずのみや)の降嫁反対運動にも参加した。坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、老中安藤信正(あんどうのぶまさ)襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、宇都宮藩に預けられたが文久(ぶんきゅう)2年7月12日没した。47歳。
[山口宗之 2016年4月18日]
『平泉澄・寺田剛編『大橋訥庵先生全集』全3巻(1938~1943・至文堂/改訂版・2006・慧文社)』▽『寺田剛著『大橋訥庵先生伝』(1936・至文堂)』
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大橋訥庵
没年:文久2.7.12(1862.8.7)
生年:文化13(1816)
幕末の尊攘派志士,儒者。長沼流兵学者清水赤城の4男。名は正順,字は周道,通称順蔵,訥庵は号。佐藤一斎門下。江戸の豪商大橋淡雅の養子となり,その援助で宇都宮藩に仕えるとともに,日本橋に思誠塾を開き子弟の育成に努めた。のちに陽明学を排して朱子学を奉じ,過激な攘夷論を主張し,ペリー来航時には幕府に上書して攘夷の実行を迫った。また安政の大獄の際には,刑死した頼三樹三郎の死体が晒されているのを悲しみ,密かに葬っている。桜田門外の変後は和宮降嫁,公武合体に反対し,王政復古策を密奏するとともに日光輪王寺宮擁立運動に加わる。これが未発に終わると関東の尊攘激派による老中安藤信正襲撃計画に合流,その斬奸趣意書を起草したといわれている。その一方で一橋慶喜を擁立した挙兵計画にかかわり,信正襲撃3日前の文久2(1862)年1月12日,捕らえられた。挙兵を計画すれば実行に加わる有志が次々に現れるであろうとの楽観論を持ち,その状況認識には甘さがみられる。獄中で病気になり,7月7日,許されて出獄し宇都宮藩に預けられたが,同12日に死去した。<参考文献>『大橋訥庵先生全集』全3巻
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大橋訥庵【おおはしとつあん】
幕末の朱子学者。尊王攘夷思想家。名は正順(まさより),字は周道(しゅうどう)。江戸の人。日本橋の豪商大橋淡雅の養子となる。佐藤一斎に学び,朱子学を強調し,洋学を排撃,和宮降家問題では反対運動に加わる。坂下門外の変を画策して投獄され,獄中で罹病(りびょう),下野(しもつけ)宇都宮藩に預けられたが間もなく死亡。毒殺ともいう。著書《闢邪小言(へきじゃしょうげん)》《元寇紀略》《訥庵文詩鈔》等。
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大橋訥庵 おおはし-とつあん
1816-1862 幕末の儒者。
文化13年生まれ。佐藤一斎にまなび,江戸の豪商大橋淡雅の養子となる。思誠塾をひらき,のち下野(しもつけ)宇都宮藩主の侍講をつとめた。尊攘(そんじょう)論を主張し,老中安藤信正襲撃をくわだてた罪で投獄され,出獄直後の文久2年7月12日病死。47歳。江戸出身。本姓は清水。名は正順。字(あざな)は周道。通称は順蔵。別号に曲洲,承天。著作に「闢邪(へきじゃ)小言」「元寇(げんこう)記略」など。
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大橋訥庵
おおはしとつあん
[生]文化13(1816).江戸
[没]文久2(1862).7.12. 江戸
江戸時代後期の儒学者,尊王攘夷論者。佐藤一斎に学び,江戸の豪商佐野屋大橋淡雅の養子となる。『闢邪小言』を著わして洋学を排斥,また攘夷を主張,水戸,宇都宮藩士らと交わり,老中安藤信正襲撃計画に参画したが,事前に捕えられ病没。
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大橋訥庵
おおはしとつあん
1816〜62
幕末の志士・儒者
兵学者の子として江戸に生まれ,豪商大橋家の養子となる。佐藤一斎に儒学を学んだが実践の人であり,1853年ペリー来航後尊王攘夷運動を推進。老中安藤信正の暗殺を計画したが捕らえられ獄中で病死した。主著に『闢邪小言 (へきじやしようげん) 』など。
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