市之町(読み)いちのまち

日本歴史地名大系 「市之町」の解説

市之町
いちのまち

下京区西木屋町通松原上ル三丁目

ほぼ南北に通る西木屋町にしきやまち通を挟む両側町で、町の東側には高瀬たかせ川が流れ、西側は河原町かわらまち通にも面する。

平安京では京域外で、崇親すうしん院領となっていた。崇親院は平安時代末に荒廃してしまうが、その後は妙法院門跡領となった。

鴨川新堤の建設が完成した寛文一〇年(一六七〇)以後に町地として開発された。「坊目誌」によれば元禄年間(一六八八―一七〇四)には「角倉町」とよばれたという。慶長年間(一五九六―一六一五)角倉了以高瀬川を開削して後、角倉氏に川支配がゆだねられたことによるものであろう。宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図に「市之丁」と現町名がみえ、同絵図では当町の高瀬川沿いを「市之丁裏」と記している。

市之町
いちのちよう

[現在地名]堺市市之いちのひがし一丁・市之いちの西にし一丁

大道に面した両側町で北は大小路。「蔗軒日録」文明一七年(一四八五)閏三月一日条、天文四年(一五三五)四月二八日の念仏寺築地修理料差文(開口神社文書)、「天王寺屋会記」永禄八年(一五六五)九月一七日条にみえる「市小路」は当町に関係する名と考えられる。また「大乗院寺社雑事記」長享三年(一四八九)八月一八日条には「至和泉堺一小路柚皮之北也」とある。柚皮は遣明貿易で有名な湯川宣阿のことであろう。前掲、築地修理料差文には市小路いちしようじの「のとや」「あふらや」「しろかねや」「さつまや」「まんさきや」「なや」「伊勢や」「八の」「ひのくちや」など一五人の町人の名がみえ、うち六人は「なや」を屋号としている。

市之町
いちのちよう

[現在地名]北区天神橋てんじんばし一丁目

天満てんま八丁目の西にある。大川北岸から北へ延びる両側町で、天神鳥居てんじんとりい筋までをいう。初発言上候帳面写は天満八丁目・同九丁目が当町を含めて三町になったとする。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図では南四町分が八丁目、北一町分が九丁目となっているが、元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図では浜より北へ市之町とある。大坂三郷天満組に属し、同一三年の三郷水帳寄帳では屋敷数四二・役数四四役と七分五厘役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。

市之町
いちのちよう

中京区大宮通御池上ル

南北に通る大宮おおみや(旧大宮大路)を挟む両側町。北側を押小路おしこうじ(旧押小路)、南側を姉小路あねやこうじ(旧姉小路)東西に通る。

平安京の条坊では、町の東側は左京三条二坊一保二町の西、西側は左京三条一坊四保一五町の東、中央は大宮大路上。平安中期以降は三条坊門大宮大路の北にあたる。町の西側は平安時代神泉苑の地(拾芥抄)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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