仏光寺(読み)ブッコウジ

デジタル大辞泉 「仏光寺」の意味・読み・例文・類語

ぶっこう‐じ〔ブツクワウ‐〕【仏光寺】

京都市下京区にある真宗仏光寺派の本山。山号は渋谷(汁谷)山。寺伝では建暦2年(1212)親鸞しんらんの開創とするが、一説には、正中元年(1324)に仏光寺7世の了源が山科の興正寺を改称して渋谷に移したものともいう。天正14年(1586)現在地に移転。

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精選版 日本国語大辞典 「仏光寺」の意味・読み・例文・類語

ぶっこう‐じブックヮウ‥【仏光寺】

  1. 京都市下京区新開町にある浄土真宗仏光寺派の本山。山号は渋谷山(汁谷山とも)。建暦二年(一二一二)親鸞が山科に創建した興隆正法寺(興正寺)に始まる。元応二年(一三二〇)七世了源が東山渋谷に移し、嘉暦二年(一三二七後醍醐天皇の綸旨を承けて阿彌陀仏光寺と改名。天正一四年(一五八六)現在地に移転。

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日本歴史地名大系 「仏光寺」の解説

仏光寺
ぶつこうじ

[現在地名]下京区新開町

北は仏光寺通、南は高辻たかつじ通を限り、正面東向きで高倉たかくら通に門を開く。渋谷山と号し、真宗仏光寺派本山。本尊阿弥陀如来。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔興正寺の時代〕

開基は親鸞。以降の法脈は、真仏(下野高田の真仏説と常陸横曾根の平太郎真仏説の二説あり)・源海(武蔵荒木)・了海(武蔵阿佐布)・誓海(相模甘縄)・明光(鎌倉高御蔵、のち相模野比)と次第する。「大谷遺跡録」に「洛東五条坊門渋谷仏光寺ハ、高祖四十歳建暦二年ノ秋九月御門弟ノ達請ニ由テ□建シ給フ梵区也、五条西洞院華園ノ御草庵ヲ一宇ノ仏閣トナシ(中略)真仏房ヲ上洛セシメ奏達セラルヽニ、興正寺ト云勅号ヲ賜フ(中略)正嘉二年荒木源海ヲ招テ、興正寺ノ寺務ヲ譲ル」、享保一八年(一七三三)板行の「親鸞聖人正明伝」に建暦二年(一二一二)九月「聖人、城州山科村ニ一宇ヲ草創シタマフ。是ハ江東荒木源海ノ請達ニ由テナリ。今ノ興正寺是ナリ」とあるが、いずれも明証を欠く。なお建暦二年は親鸞が流罪を許された年にあたる(本願寺親鸞上人伝絵)。「存覚一期記」正中元年(一三二四)の条によれば「八月時正中、山科興正寺空性建立之寺寺号大上被付也、予致供養了」とあり、山科興正寺は第七代空性房了源(相模山下の人)が建立、寺号の命名は覚如、存覚が彼岸会の供養をしたことがわかる。現在御影堂に安置する聖徳太子像胎内文書に「奉造立、皇太子之像一体、右彼尊像者尾張法印湛幸之作也、絵仏子源円法眼 願主釈空性(花押) 元応弐年正月廿八日開眼之、釈円空書之(花押)」とあり、頭中に骨粉を包んで納めた紙に「了海聖人御遺骨 元応弐年正月廿八日 於太子御頭中奉入之」とある。元応二年(一三二〇)に了源が願主となって像の開眼供養をし、五代了海の遺骨を頭中に納めたのである。


仏光寺
ぶつこうじ

[現在地名]福栄村大字紫福 畑

五台山と号し、臨済宗建仁寺派。本尊阿弥陀如来。

もと仏母ぶつも寺と称したが、明治四年(一八七一)紫福しぶき村内の字土井之内どいのうちにあった瑞光ずいこう寺を合併して現寺号に改称した。仏母寺の創建を「注進案」は正安元年(一二九九)とする。境内の文殊堂に安置する文殊菩薩騎獅像(県指定有形文化財)は檜の寄木造で、「正平十二年丁酉八月廿三日 住持比丘巨峰 大檀那□□□□丸 大勧進源□藤□ 建仁寺大仏師肥前法橋覚賀」「仏母寺本尊光作者僧恵覚 貞治四年九月廿日」との墨書銘がある。


仏光寺
ぶつこうじ

[現在地名]三重県紀伊長島町長島 南本町

紀伊長島町の西部山麓に位置。大島山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。江戸時代は熊野五ヵ寺の一として寺格高く、「続風土記」に「本堂十一間七間・御影堂方三間・衆寮方七間・僧坊六間五間・方丈方六間・鐘楼方二間・鎮守二社・大門四脚門」と記され、末寺として二郷にご(現紀伊長島町)養海ようかい院をはじめ一〇ヵ寺を書上げている。「北牟婁郡地誌」に「元和九年僧大竜開基創建ス。当時常光院ト称シ字岡ノ上ニアリテ、明暦元年僧大順今ノ地ニ移シ(中略)中興ト称ス。

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改訂新版 世界大百科事典 「仏光寺」の意味・わかりやすい解説

仏光寺 (ぶっこうじ)

京都市下京区にある真宗仏光寺派の本山。渋谷山と号する。寺伝によれば,1212年(建暦2)流罪を許された親鸞が越後から上京,山科に一宇を建て興隆正法寺の号を賜り,略して興正寺と称したという。しかし《存覚一期記》には,1324年(正中1)7世了源が山科に一宇を建て覚如が興正寺と命名,のち了源は寺を洛東渋谷(しぶたに)に移して仏光寺と改めたという。ここを拠点に了源は布教に尽力し信者の組織化につとめ,当時農民の地縁的自治組織であった惣(そう)を真宗門徒の組織に導入して念仏者の惣を結成し,衆議に基づく教団の運営を図った。1335年(建武2)了源は伊賀国七里峠で賊により殺害されたため,その子源鸞,妻了明尼があとを継ぎ,了源が用いた光明本尊および本派独自の名帳(みようちよう)・絵系図を駆使して布教につとめ,近畿,中国,四国の各地に広く門徒を得た。名帳は系譜の形で法脈師弟の関係を示したものであり,絵系図は名帳の人名に肖像画を加えたものである。《本福寺由来記》によると,1413年(応永20)ころ本願寺には訪れる人もまれであったが,仏光寺は名帳・絵系図を用いていたので多数の参詣人があり,大盛況を呈していたという。1481年(文明13)12世性善の長子経豪は本願寺蓮如に帰依し,名を蓮教と改め,山科に寺を別立して旧称の興正寺を名のった。このとき寺僧42坊と諸国門徒の大半は彼に従ったという。仏光寺は経豪の弟経誉が継ぎ,残った6坊を中心に教団のたて直しに努力し,漸次旧観に復した。1586年(天正14)16世紀範のとき,豊臣秀吉が渋谷に方広寺大仏殿の建立を図り,仏光寺の移転を求めたため現在地に移った。1788年(天明8)と1864年(元治1)の2度の大火に堂宇が焼失したが,26世真意尼の尽力によって1884年に御影堂,1904年には阿弥陀堂がそれぞれ落成した。寺宝として聖徳太子立像(重要文化財)などがある。
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仏光寺 (ぶっこうじ)
Fó guāng sì

中国,山西省五台県豆村付近にある仏寺。北魏時代の創建と伝え,唐代初期に再興されて五台山十大寺の一つに列した。伽藍は西向きの斜面に3層の段状配置をとり,西端南側に支殊殿,東の高所に大殿と祖師塔などが立つが,中間にあったという弥勒閣は失われた。大殿は唐の857年(大中11)の再建になり,間口7間(34m),奥行き4間(約18m),寄棟造の建物で,現存する数少ない唐代木造建築のうちでも代表的な遺構である。殿内の須弥壇には釈迦,弥勒,阿弥陀や普賢,文殊などの唐代塑像を安置する。整然とした内外2槽の柱配置の平面で,小組格天井や梁,斗栱(ときよう)などを駆使した明快な構成をもつ。殿の前面には再建当時の奉献者の名を刻んだ石幢があり,扉裏面にも唐代後期の墨書数点があって建立年代を裏づける。文殊殿は金の1137年(天会15)の再建で,桁行7間,梁間4間,切妻造の自由な柱配置を駆使した建物である。大殿脇には北魏時代建立と推定される六角形,石造の祖師塔がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仏光寺」の意味・わかりやすい解説

仏光寺
ぶっこうじ

京都市下京(しもぎょう)区新開町にある真宗仏光寺派の本山。渋谷山華園院(じっこくざんけおんいん)と号する。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)。寺伝によると、1212年(建暦2)親鸞(しんらん)の開基。親鸞の高弟源海(げんかい)が真宗興隆のため根本道場を開創することを師に請い、その許しを得て京都山科(やましな)の地に建立を企て、1214年(建保2)に完成。1218年順徳(じゅんとく)天皇から興正寺の寺号を受け、源海は親鸞、真仏を継いで第3世を称したという。一説には、1324年(正中1)の創建といい、また、もと西洞院(にしのとういん)華園の地に一宇の堂があって、真仏はじめその門流がこれを守っていたが、了源のとき寺基を山科に移して興正寺と名づけ、さらに仏光寺と改称して洛東(らくとう)渋谷に移したという説がある。了源は仏光寺第7世で、足利尊氏(あしかがたかうじ)や後醍醐(ごだいご)天皇の庇護(ひご)を得、また各地を教化(きょうげ)して寺基は大いに栄えたので、中興の祖と仰がれている。豊臣(とよとみ)秀吉のとき現在地に移った。現在の堂宇は明治以降のもので、本堂(阿弥陀堂)、大師堂、茶席寒雲亭、鐘楼、書院などがあり、本尊木造阿弥陀如来像、木造聖徳太子立像(国重要文化財)など宝物がある。

[瓜生津隆真]

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百科事典マイペディア 「仏光寺」の意味・わかりやすい解説

仏光寺【ぶっこうじ】

京都市下京区新開町の真宗仏光寺派本山。1212年親鸞の開基。初め山科にあり,興正寺と称したが,1320年7世了源が京都市中に移し,後醍醐天皇は仏光寺と改称,足利尊氏祈願所となった。13世光教のとき後土御門天皇の綸旨(りんじ)により,真宗最初の門跡寺となり,1586年豊臣秀吉が現地へ移建した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仏光寺」の意味・わかりやすい解説

仏光寺
ぶっこうじ
Fo-guang-si

中国,山西省五台県豆村鎮の北 5kmにある寺院。北魏の孝文帝の創建と伝えられる。会昌の廃仏にあって,伽藍が壊滅したのちに再建されたのが現在の大殿。大殿は殿前に建つ経幢 (きょうどう) の刻文,梁銘などによって,唐の大中 11 (857) 年に建てられたことが確認された。内部には 30体もの仏像と五百羅漢像が安置されている。

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世界大百科事典(旧版)内の仏光寺の言及

【興正寺】より

…山号は円頓山。7世了源のとき興正寺と称し,のち仏光寺と改称。14世経豪は1481年(文明13)門徒の大部分をつれて本願寺蓮如の傘下に入り,旧号の興正寺を称し,名を蓮教と改めた。…

【寺院建築】より

…唐,782),広仁王廟大殿(山西省芮城。唐,831)が古く,これに次ぐ仏光寺大殿(山西省五台山。唐,857)は間口7間,寄棟造の本格的規模をもつ。…

※「仏光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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