開基は親鸞。以降の法脈は、真仏(下野高田の真仏説と常陸横曾根の平太郎真仏説の二説あり)・源海(武蔵荒木)・了海(武蔵阿佐布)・誓海(相模甘縄)・明光(鎌倉高御蔵、のち相模野比)と次第する。「大谷遺跡録」に「洛東五条坊門渋谷仏光寺ハ、高祖四十歳建暦二年ノ秋九月御門弟ノ達請ニ由テ□建シ給フ梵区也、五条西洞院華園ノ御草庵ヲ一宇ノ仏閣トナシ(中略)真仏房ヲ上洛セシメ奏達セラルヽニ、興正寺ト云勅号ヲ賜フ(中略)正嘉二年荒木源海ヲ招テ、興正寺ノ寺務ヲ譲ル」、享保一八年(一七三三)板行の「親鸞聖人正明伝」に建暦二年(一二一二)九月「聖人、城州山科村ニ一宇ヲ草創シタマフ。是ハ江東荒木源海ノ請達ニ由テナリ。今ノ興正寺是ナリ」とあるが、いずれも明証を欠く。なお建暦二年は親鸞が流罪を許された年にあたる(本願寺親鸞上人伝絵)。「存覚一期記」正中元年(一三二四)の条によれば「八月時正中、山科興正寺空性建立之寺寺号大上被付也、予致供養了」とあり、山科興正寺は第七代空性房了源(相模山下の人)が建立、寺号の命名は覚如、存覚が彼岸会の供養をしたことがわかる。現在御影堂に安置する聖徳太子像の胎内文書に「奉造立、皇太子之像一体、右彼尊像者尾張法印湛幸之作也、絵仏子源円法眼 願主釈空性(花押) 元応弐年正月廿八日開眼之、釈円空書之(花押)」とあり、頭中に骨粉を包んで納めた紙に「了海聖人御遺骨 元応弐年正月廿八日 於太子御頭中奉入之」とある。元応二年(一三二〇)に了源が願主となって像の開眼供養をし、五代了海の遺骨を頭中に納めたのである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市下京区にある真宗仏光寺派の本山。渋谷山と号する。寺伝によれば,1212年(建暦2)流罪を許された親鸞が越後から上京,山科に一宇を建て興隆正法寺の号を賜り,略して興正寺と称したという。しかし《存覚一期記》には,1324年(正中1)7世了源が山科に一宇を建て覚如が興正寺と命名,のち了源は寺を洛東渋谷(しぶたに)に移して仏光寺と改めたという。ここを拠点に了源は布教に尽力し信者の組織化につとめ,当時農民の地縁的自治組織であった惣(そう)を真宗門徒の組織に導入して念仏者の惣を結成し,衆議に基づく教団の運営を図った。1335年(建武2)了源は伊賀国七里峠で賊により殺害されたため,その子源鸞,妻了明尼があとを継ぎ,了源が用いた光明本尊および本派独自の名帳(みようちよう)・絵系図を駆使して布教につとめ,近畿,中国,四国の各地に広く門徒を得た。名帳は系譜の形で法脈師弟の関係を示したものであり,絵系図は名帳の人名に肖像画を加えたものである。《本福寺由来記》によると,1413年(応永20)ころ,本願寺には訪れる人もまれであったが,仏光寺は名帳・絵系図を用いていたので多数の参詣人があり,大盛況を呈していたという。1481年(文明13)12世性善の長子経豪は本願寺蓮如に帰依し,名を蓮教と改め,山科に寺を別立して旧称の興正寺を名のった。このとき寺僧42坊と諸国門徒の大半は彼に従ったという。仏光寺は経豪の弟経誉が継ぎ,残った6坊を中心に教団のたて直しに努力し,漸次旧観に復した。1586年(天正14)16世紀範のとき,豊臣秀吉が渋谷に方広寺大仏殿の建立を図り,仏光寺の移転を求めたため現在地に移った。1788年(天明8)と1864年(元治1)の2度の大火に堂宇が焼失したが,26世真意尼の尽力によって1884年に御影堂,1904年には阿弥陀堂がそれぞれ落成した。寺宝として聖徳太子立像(重要文化財)などがある。
執筆者:千葉 乗隆
中国,山西省五台県豆村付近にある仏寺。北魏時代の創建と伝え,唐代初期に再興されて五台山十大寺の一つに列した。伽藍は西向きの斜面に3層の段状配置をとり,西端南側に支殊殿,東の高所に大殿と祖師塔などが立つが,中間にあったという弥勒閣は失われた。大殿は唐の857年(大中11)の再建になり,間口7間(34m),奥行き4間(約18m),寄棟造の建物で,現存する数少ない唐代木造建築のうちでも代表的な遺構である。殿内の須弥壇には釈迦,弥勒,阿弥陀や普賢,文殊などの唐代塑像を安置する。整然とした内外2槽の柱配置の平面で,小組格天井や梁,斗栱(ときよう)などを駆使した明快な構成をもつ。殿の前面には再建当時の奉献者の名を刻んだ石幢があり,扉裏面にも唐代後期の墨書数点があって建立年代を裏づける。文殊殿は金の1137年(天会15)の再建で,桁行7間,梁間4間,切妻造の自由な柱配置を駆使した建物である。大殿脇には北魏時代建立と推定される六角形,石造の祖師塔がある。
執筆者:田中 淡
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京都市下京(しもぎょう)区新開町にある真宗仏光寺派の本山。渋谷山華園院(じっこくざんけおんいん)と号する。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)。寺伝によると、1212年(建暦2)親鸞(しんらん)の開基。親鸞の高弟源海(げんかい)が真宗興隆のため根本道場を開創することを師に請い、その許しを得て京都山科(やましな)の地に建立を企て、1214年(建保2)に完成。1218年順徳(じゅんとく)天皇から興正寺の寺号を受け、源海は親鸞、真仏を継いで第3世を称したという。一説には、1324年(正中1)の創建といい、また、もと西洞院(にしのとういん)華園の地に一宇の堂があって、真仏はじめその門流がこれを守っていたが、了源のとき寺基を山科に移して興正寺と名づけ、さらに仏光寺と改称して洛東(らくとう)渋谷に移したという説がある。了源は仏光寺第7世で、足利尊氏(あしかがたかうじ)や後醍醐(ごだいご)天皇の庇護(ひご)を得、また各地を教化(きょうげ)して寺基は大いに栄えたので、中興の祖と仰がれている。豊臣(とよとみ)秀吉のとき現在地に移った。現在の堂宇は明治以降のもので、本堂(阿弥陀堂)、大師堂、茶席寒雲亭、鐘楼、書院などがあり、本尊木造阿弥陀如来像、木造聖徳太子立像(国重要文化財)など宝物がある。
[瓜生津隆真]
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…山号は円頓山。7世了源のとき興正寺と称し,のち仏光寺と改称。14世経豪は1481年(文明13)門徒の大部分をつれて本願寺蓮如の傘下に入り,旧号の興正寺を称し,名を蓮教と改めた。…
…唐,782),広仁王廟大殿(山西省芮城。唐,831)が古く,これに次ぐ仏光寺大殿(山西省五台山。唐,857)は間口7間,寄棟造の本格的規模をもつ。…
※「仏光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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