プロレタリア演劇 (プロレタリアえんげき)
第1次大戦後に〈社会主義理論〉をその思想的裏付けとしながら,労働者,無産者階級およびそれを支持する知識人,文化人によって行われた演劇およびその演劇運動をいう。そこにはいわゆる〈労働者演劇〉(労働者の演劇)や〈アジプロ演劇〉(後述)という概念が,多少のずれを含みつつもほぼ重なり合って存在する。
ドイツではすでに1860年ごろからF.ラサールの労働協会で,労働者の教養や娯楽のための演劇が考えられ,19世紀末には〈労働者劇〉の作家も出ているが,それらは第1次大戦後にはドイツ共産党系のプロレタリア演劇運動に吸収されていった。アジプロ演劇とは,そもそもは共産党直属の〈アジプロ隊Agitprop Truppe〉などにより行われたもので,その名の通り煽動(アジテーション)と宣伝(プロパガンダ)の演劇というのが原義である。1919年以来,いわゆる〈移動演劇〉の形で労働者街に進出して,シュプレヒコールや寸劇などによって,労働者観客の間に受け入れられ,一つの政治・文化運動となっていた。E.ピスカートルがやはり共産党の依頼で行った〈赤いレビュー〉では,カバレット(キャバレー)の形式などもとりいれられ,素人の労働者が上演に参加している。23年にソビエトで始まった〈菜っ葉服隊〉も同じような運動であり,この劇団の27年の客演も刺激となって,ドイツでは29年には120ものアジプロ劇団が生まれ,〈1931集団(トルッペ)〉などには職業俳優も参加するようになっている。17年の十月革命後のソビエトの演劇は,観客としてプロレタリアを想定したという意味ではすべてこの新しい演劇の模索であったといえるが,のち路線の変更によって前衛的な傾向が抑えられると,しだいに〈市民的〉な演劇に移行した。ピスカートルは,みずからの〈プロレタリア劇場〉という試みに失敗したのち,普通の劇場の場で左翼的な演劇を推進したが,〈民衆劇場〉を急進的すぎるために追われたのちは,27年から自分の劇場をもって政治的な演劇の活動を続けた。しかし,ナチスの登場によってこれらいっさいの運動は弾圧されていった。なお,アメリカやイギリスにも20年代に組合系の演劇運動が起こり,これらは30年代まで存続,必ずしも広範な大衆的支持を得たとは言えぬものの,アメリカのC.オデッツによるタクシー運転手のストライキを扱った名作《レフティを待ちながら》(1935)なども生まれている。
日本でも1919年,神戸川崎造船所の争議の後,最初の労働劇団〈日本労働劇団〉が生まれている。また21年には東京の下町で平沢計七による〈労働劇団〉が生まれ,これは平沢が関東大震災で虐殺される(亀戸(かめいど)事件)まで続いた。このような労働者のアマチュア劇団のほか,進歩的芸術家の集団〈種蒔(ま)き社〉や,秋田雨雀,佐々木孝丸(たかまる)らが結成した〈先駆座〉(1923)などの運動もあった。
24年,〈築地小劇場〉の発足によって日本の新劇運動の第2期が始まるのと並行するかのように,プロレタリア文芸戦線が成立,その一環として佐々木孝丸,八田元夫らの移動劇団〈トランク劇場〉が生まれ,各所の争議などの支援にも乗り込んでいった。また,25年には千田是也,村山知義,久板(ひさいた)栄二郎,佐野碩(せき)などの〈前衛座〉が結成された。こういう運動は築地小劇場の一部の人々にも影響を与え,28年末から29年の築地小劇場の分裂の一因ともなった。一方,28年は日本のプロレタリア芸術運動の内部闘争がようやくまとまって〈左翼劇場〉のもとに合同が行われた年でもあり,さらに同年,全国無産者芸術同盟(ナップ)が組織されると,同劇場はその演劇部となり,村山知義の《暴力団記》や徳永直(すなお)の《太陽のない街》などが上演された。同時期に日本プロレタリア演劇同盟(略称プロット)も結成され,この組織は30年に国際労働者演劇同盟(略称IATB)に加わっている。31年には築地小劇場の流れを汲む〈新築地劇団〉もプロットに加盟し,プロレタリア演劇が新劇の主流の観を呈したが,やがて弾圧が厳しくなり,34年にはプロットは解散に追い込まれた。同じ年,出獄した村山知義は新劇の大同団結を提唱して〈新協劇団〉を設立,40年の強制解散まで活動を続けたが,政治闘争を前面に出すことはできず,大衆化やリアリズムの問題を提起し続け,それを戦後に持ち越すことが精一杯であった。しかし戦後の新劇で指導的な役割を果たした演劇人には,プロット時代に形成期を送った人々が多く,ある時期までプロレタリア演劇運動は戦後の新劇の底流をなしていたとも考えられる。
高度経済成長の時代に入り,必然的に階級意識が薄弱化するにつれ,〈労働者演劇〉は〈プロレタリア演劇〉とは同義語ではなくなり,今日ではさらに,〈労働者〉というよりもアマチュアの勤労者が余暇に演ずるといったような意味合いが強くなっている。したがって,そこではこれらの演劇はいわゆる職場演劇,業余演劇あるいはアマチュア演劇の中に統合されたとみることもできる。
執筆者:岩淵 達治
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プロレタリア演劇
ぷろれたりあえんげき
第一次世界大戦後の労働運動の進展、とくにロシア革命の成功を背景として1920~30年代に世界各国で展開された、労働者自身による演劇運動あるいは労働者階級の解放を志向する演劇運動をいう。1930年(昭和5)には国際労働者演劇同盟(略称IATB。のち国際革命演劇同盟と改称)も結成され、旧ソ連、ドイツ、日本などで盛んであったが、その性格、様相は一様でない。
日本では、明治末年から主として社会主義者により労働者のための啓蒙(けいもう)的、慰安的な演芸活動が試みられたが、プロレタリア演劇の初期の動きとしては、まず1920年(大正9)神戸川崎造船所での「日本労働劇団」の結成、これに呼応して翌年、組合活動家平沢計七が東京の下町に組織し、自作脚本を上演した「労働劇団」の活動がある。他方、これら労働者による演劇活動に対し、プロレタリア文学運動側から金子洋文(ようぶん)、佐々木孝丸(たかまる)ら『種蒔(ま)く人』同人とその周辺の文学者たちも演劇活動を開始し、23年には秋田雨雀(うじゃく)らの「先駆座」が生まれた。関東大震災(1923)後には、旧『種蒔く人』同人を中心に25年に結成された日本プロレタリア文芸連盟に拠(よ)る人々が移動演劇形態「トランク劇場」によって活動した。プロ連は翌26年日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に再組織され、演劇部も設置された。その演劇部員が中心になり、マルクス主義的な世界観にたち、移動演劇ではなく、本格的な公演形態による演劇活動を目的とした「前衛座」を発足させ、同年暮れにルナチャルスキーの『解放されたドン・キホーテ』で第1回公演を行い、築地(つきじ)小劇場の地位を揺るがす好評を得た。前衛座はこののち、プロレタリア文学・演劇運動内部の対立のため、わずか6か月で分裂したが、28年(昭和3)全日本無産者芸術連盟(ナップ)の発足とともに合同・統一が進み、その傘下に左翼劇場が生まれ、村山知義(ともよし)、久板栄二郎(ひさいたえいじろう)、佐野碩(せき)らが文芸・演出に活躍した。さらに29年、ナップ再編成により全国的な演劇組織、日本プロレタリア劇場同盟(プロット。のち日本プロレタリア演劇同盟)が結成され、マルクス主義の観点とリアリズムを強調するプロレタリア・リアリズムの創造方法を基調とし、多様な上演形態や手法を通して労働者・農民らの新しい観客層に働きかける活発な活動を展開し、30年代初頭にはプロレタリア演劇の全盛期を迎えた。村山の『暴力団記』、徳永直(すなお)原作の『太陽のない街』、レマルク原作の『西部戦線異状なし』、トレチャコフの『吼(ほ)えろ支那(しな)』などは日本プロレタリア演劇史上を飾る傑作である。
しかし、上演台本の事前検閲、削除、上演禁止、成員の検挙など官憲による弾圧が強化され、33年ごろには公演活動が極度に困難になり、運動の方向転換が模索されたが、翌年7月プロットは解散を余儀なくされた。同年村山の新劇団大同団結の提唱により「新協劇団」が発足、「新築地劇団」との併立時代を迎えたが、40年ともに強制解散となった。総じて日本プロレタリア演劇には、演劇の階級性を公式的・機械的に強調するあまり、プロレタリア演劇とブルジョア演劇の対立という図式にとらわれ、内外の演劇遺産を軽視し、統一戦線戦術に未熟であるなどの弱点もあったが、社会変革と演劇創造の統一という画期的な事業を試み成果をあげた点で、日本演劇史上、無視できない地位を占めている。
[祖父江昭二]
『秋庭太郎著『日本新劇史 下巻』(1956・理想社)』▽『松本克平著『日本新劇史・新劇貧乏物語』(1966・筑摩書房)』▽『松本克平著『日本社会主義演劇史・明治大正篇』(1975・筑摩書房)』▽『祖父江昭二編『プロット機関誌・紙』(1983・戦旗復刻版刊行会)』
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「プロレタリア演劇」の意味・わかりやすい解説
プロレタリア演劇【プロレタリアえんげき】
社会主義の立場による演劇,および演劇運動。ロシア革命やドイツ革命の影響をうけて1920年代全世界に波及。日本では,大正末期に多くの左翼劇団や労働者劇団が生まれ,1928年〈左翼劇場〉に結集。1929年〈日本プロレタリア劇場同盟〉(略称プロット)が結成されて全国組織となった。国際的には1932年〈国際革命演劇同盟〉(略称IRTB)が組織された。ファシズムの進行とともに1934年左翼劇場およびプロットは解散。
→関連項目秋田雨雀|久保栄|新協劇団|久板栄二郎|土方与志|三好十郎|村山知義
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プロレタリア演劇
プロレタリアえんげき
proletarian theatre
マルクス主義用語。第1次世界大戦後,1920年代から 30年代にかけ,経済的不安とソビエト革命の影響を受けて,ドイツ,日本,アメリカなどで盛んになった演劇運動。演劇を通してプロレタリアの階級闘争を推し進め,革命的世界観の普及を目的としたもので,このため既成のブルジョア的演劇形式を否定,トラックによる移動演劇やシュプレヒコール (集団朗誦) ,構成舞台などの全体演劇的な新しい手法を取入れた。日本では,23年秋田雨雀を中心に先駆座が結成され,25年に日本プロレタリア文芸連盟 (プロ連) が創立されると,先駆座を中心にプロ連の演劇部が誕生。村山知義や佐野碩,久板栄二郎らが参加した。さらにマルクス主義芸術理論による劇団組織を目指して 26年 12月前衛座を結成するが,福本イズム (→福本和夫 ) の影響下に1年後前衛劇場とプロレタリア劇場に分裂。 28年両劇団が再び合同して左翼劇場となり,プロレタリア演劇の中核となった。
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世界大百科事典(旧版)内のプロレタリア演劇の言及
【職場演劇】より
…会社,工場,官庁等の職場で組織された自主的なサークル演劇活動をいう。このような演劇活動はいうまでもなく世界各国に見られ,とくに第1次世界大戦後のドイツで盛んであったが,それらについては〈[プロレタリア演劇]〉〈[アマチュア演劇]〉などの項にゆずることとし,ここでは日本における職場演劇の成立,展開について述べることにする。 日本の労働運動のなかでは,すでに大正期に自主的な演劇サークルが誕生し,平沢計七らの戯曲創作もあったが,盛んになったのは昭和初めのプロレタリア演劇運動の進展においてであった。…
※「プロレタリア演劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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