常光寺村
じようこうじむら
[現在地名]大町市大字社 山下 常光寺
現大町市の中央部で中山山地の西麓の段丘上に位置し、西にかつて仁科氏の居館があった現館之内集落を望む。滝ノ沢や居谷里堰の水を用いた段丘上の水田地帯である。
常光寺村の名は、かつてこの村の中ほどの山腹にあった常光寺という寺院に発する。寺跡にはかつて礎石や五輪塔・宝篋印塔もあり、地名として五輪平・かまえ・広面・寺浦などが寺跡周辺に伝えられている。寺名は京都の古刹常光寺と同名であり、仁科氏によってもたらされたものと想像される。
文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附には「七拾石三斗四升五合 常光寺村」とあって、これを村名の文献上の初見とする。
常光寺村
じようこうじむら
[現在地名]尼崎市常光寺一―四丁目・
長洲東通一―二丁目・
今福一丁目
今福村の北に位置し、東は神崎川を隔てて西成郡加島村出作地(現大阪市淀川区)。「太平記」巻三八に「浄光寺ノ要害」とみえ、康安二年(一三六二)八月一六日の神崎合戦で南朝和田・楠木軍の奇襲を受けた北朝摂津守護代箕浦軍は、浄光寺(現真言宗善通寺派)の要害に引返そうとしたが、すでに敵に乗っ取られたため四散して逃れた。
常光寺村
じようこうじむら
[現在地名]滑川市常光寺
上市川東岸に位置し、対岸は竹鼻村(現上市町)、北西は有金村。村名は千光寺心蓮坊(現魚津市)の松巌が宝徳年間(一四四九―五二)頃に当地に小庵を建て、常光寺と号したことにちなむと伝える。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(杉木家文書)によると草高一九九石、免三ツ六歩。所属組は下小泉村と同じ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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