日本大百科全書(ニッポニカ) 「常呂遺跡群」の意味・わかりやすい解説
常呂遺跡群
ところいせきぐん
北海道北見(きたみ)市常呂町常呂を含む一帯にある縄文文化、続縄文文化、擦文(さつもん)文化、オホーツク文化などの遺跡の総称。調査は、1957年(昭和32)以来、東京大学文学部により継続して行われている。常呂町地区は、大雪(たいせつ)山系に源をもちオホーツク海斜面最大の流域面積をもつ常呂川の川口にあり、その川口を中心にして、現海岸線からおよそ2キロメートルの範囲に遺跡が100地点ほど発見されている。これらの遺跡は台地端および砂丘上にみられ、最大規模のものは、常呂川川口からサロマ湖へと延びる砂丘上にある栄浦(さかえうら)第二遺跡と常呂竪穴(たてあな)群である。前者は2000余の竪穴を、後者は500ほどの竪穴を地表から見ることができる。遺跡は、海岸線に沿って東西6キロメートル、南北300メートルの範囲にあり、現在、わが国でもっとも多数の竪穴がみられる。竪穴の多くは住居跡と考えられ、縄文文化、続縄文文化、オホーツク文化のものもみられるが、もっとも多いのは擦文文化の住居跡と考えられる。墓も発見されている。平安・鎌倉時代に至る北辺の生活を解明する鍵(かぎ)を握っているともいえる遺跡である。これらは1974年3月「常呂遺跡」として国史跡に指定された。このほか、北海道東部最大の貝塚である朝日トコロ貝塚、擦文時代を中心にした岐阜第1、第2、第3遺跡、オホーツク文化・アイヌ文化を中心にしたトコロチャシなどが発掘調査されている。出土品は、本州とつながりをもつものが多いが、黒竜江(アムール川)流域をはじめとするアジア大陸北東部につながる要素をもつものも数多くみられ、日本文化形成の際に一定の役割を果たしたと考えられる北アジアからの文化要素の受け入れ口になっている。73年には、この地域の文化をおもな研究目的とする東大文学部附属北海文化研究常呂実習施設も設立され、研究が継続されている。
[藤本 強]