常磐津林中(初代)(読み)ときわづ・りんちゅう

朝日日本歴史人物事典 「常磐津林中(初代)」の解説

常磐津林中(初代)

没年:明治39.5.6(1906)
生年天保13.12(1842)
幕末明治期の常磐津節の太夫盛岡藩士石川清蔵の子で名は忠助。三浦藩士山蔭定次郎の養子となる。常磐津和登太夫に学び,嘉永6(1853)年小和登太夫。のち4代目常磐津文字太夫,初代常磐津松尾太夫に学ぶ。文久2(1862)年2代目松尾太夫となる。明治12(1879)年7月,12代目守田勘弥の世話で前家元6代目小文字太夫の亡きあと,その妻常子の養子となり,7代目小文字太夫となったが,19年家元から離縁となり,林中と改名。この間,15年常磐津・岸沢両派の和解を成立させたが,この和解は林中の存命中のみに終わった。さらに,宮古路国太夫半中と名乗り,岸沢仲助と地方巡業を試みたが失敗,郷里盛岡に引きこもった。29年9代目市川団十郎に招かれて上京,翌年2月林中の名で「関の扉」を語って評判となった。声量があり,振り切りがきれいで無駄節がなく,新しい演出が加えられていたので,新しい時代によく受け入れられた。また,常磐津節では日本で最初のレコード吹き込みをした。<参考文献>小野田翠雨「常磐津林中」(『文芸倶楽部』6巻15号),常磐津文字兵衛「名人林中」(『演劇界』1946年7月号),鈴木彦次郎『常磐津林中』

(安田文吉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常磐津林中(初代)」の解説

常磐津林中(初代) ときわず-りんちゅう

1843*-1906 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)13年12月生まれ。明治12年常磐津節の家元(6代小文字太夫)の未亡人の養子になり,7代小文字太夫を名のるが,同年離縁となって林中と改名。郷里の盛岡にこもっていたが,9代市川団十郎の招きで30年歌舞伎座に出演,大好評をえた。明治39年5月6日死去。65歳。本名は山蔭忠助。本姓は石川。前名は松尾太夫(2代)。

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