尾上菊五郎(読み)オノエキクゴロウ

デジタル大辞泉 「尾上菊五郎」の意味・読み・例文・類語

おのえ‐きくごろう〔をのへキクゴラウ〕【尾上菊五郎】

歌舞伎俳優。屋号、音羽屋。
(初世)[1717~1784]京都の人。初め女形、のち江戸で立役となり、華やかな芸風で人気があった。
(5世)[1844~1903]12世市村羽左衛門の次男。前名、13世羽左衛門、市村家橘かきつ。家の芸として新古演劇十種を定めて上演。江戸の世話物を得意とする。9世市川団十郎とともに明治期を代表する名優として団菊と併称された。
(6世)[1885~1949]5世の長男。初世中村吉右衛門とともに、昭和初期を代表する名優。世話物と舞踊を得意とし、近代的な芸風を確立。通称、6代目。文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「尾上菊五郎」の意味・読み・例文・類語

おのえ‐きくごろう【尾上菊五郎】

  1. 歌舞伎俳優。屋号音羽屋。
  2. [ 一 ] 初世。京都の人。女形から立役に転じ、座頭(ざがしら)もつとめた。当たり役は由良之助、菅丞相(かんしょうじょう)など。俳名梅幸。享保二~天明三年(一七一七‐八三
  3. [ 二 ] 三世。初世の門弟尾上松助の養子。江戸の人。生世話物に新境地を開き、鶴屋南北と結んで怪談狂言を大成した。「四谷怪談」のお岩を初演。天明四~嘉永二年(一七八四‐一八四九
  4. [ 三 ] 五世。三世の孫。前名市村九郎右衛門、羽左衛門、家橘。明治劇壇で九世団十郎とともに団菊(だんぎく)と並び称された名優。新古演劇十種を制定創演した。弘化元~明治三六年(一八四四‐一九〇三
  5. [ 四 ] 六世。五世の子。中村吉右衛門と共演して菊吉時代を作った大正、昭和の名優。芸術院会員。文化勲章受章。明治一八~昭和二四年(一八八五‐一九四九

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「尾上菊五郎」の解説

尾上 菊五郎(6代目)
オノエ キクゴロウ


職業
歌舞伎俳優

肩書
日本芸術院会員〔昭和21年〕

本名
寺島 幸三

別名
初名=尾上 幸三,前名=尾上 丑之助(2代目),俳号=三朝

屋号
音羽屋

生年月日
明治18年 8月26日

出生地
東京市 日本橋区浜町(東京都 中央区)

経歴
明治の名人といわれた5代目尾上菊五郎の長男。生後間もない明治19年、尾上幸三の名で初舞台。父に芸事の手ほどきを受け、24年2代目尾上丑之助を名乗り、「愛宕浦芝浦八景」の踊子幸之助役で実質的な初舞台を踏む。13歳のとき、「仮名手本忠臣蔵」で共演した9代目市川団十郎にその将来性を見込まれ、以後3年にわたり団十郎のもとで厳しい俳優修業をした。36年父が死去したため、団十郎の後援で6代目菊五郎を襲名。38年亡父の三回忌追善興行で弁天小僧を演じ、初めて主役となるが、それ以外の大役は少なかったため、田村成義の招きで下谷二長町の市村座に出演。ここで初代中村吉右衛門と共演し、41年同座に移籍して吉右衛門とのコンビで絶大な人気を獲得し、以後明治末期から大正期を通じて“菊吉時代”“二長町時代”を現出させた。10年吉右衛門が松竹に移ったためコンビを解消。12年の関東大震災で市村座ほか東京中の劇場が焼失すると、自ら陣頭に立って歌舞伎界の再建に奔走し、13年バラックではあったものの市村座を復興させ、多くの江戸っ子を喜ばせた。14年には吉右衛門とのコンビが復活。昭和2年市村座が松竹に買収されたため、同社の所属となった。5年日本橋茅場町に日本俳優学校を創立し、校長に就任。9年自ら同校の教え子たちによる俳優学校劇団を率いて東京劇場で公演を行うなど、後進の指導にも尽力した。敗戦後の20年10月、帝劇で「銀座復興」「鏡獅子」を公演。21年日本芸術院会員。24年63歳で亡くなり、没後、歌舞伎俳優として初めて文化勲章を追贈された。当たり役は「仮名手本忠臣蔵」の勘平・お軽、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「義経千本桜」の忠信、「三人吉三廓初買」のお嬢吉三、「青砥稿花紅彩画判官」の弁天小僧、「伽羅先代萩」の仁木弾正など数多く、時代物、世話物の両方にすぐれ、20世紀の歌舞伎史で最も重要な名優といわれる。また、長谷川伸「一本刀土俵入」「暗闇の丑松」、宇野信夫「巷談宵宮雨」「人情噺小判一両」などの近代作家による新作でも活躍し、近代的な歌舞伎リアリズムを確立して現代歌舞伎に多大な影響を与えた。一方、舞踊にも秀で、「道成寺」「藤娘」「棒しばり」「吉野山」などを得意としたが、特に「鏡獅子」は絶品といわれ、小津安二郎による記録映画が撮られた他、平櫛田中の彫刻のモデルにもなるなど、自身の代名詞ともなった。著書に「芸」「をどり」がある。

受賞
文化勲章〔昭和24年〕

没年月日
昭和24年 7月10日 (1949年)

家族
父=尾上 菊五郎(5代目),弟=坂東 彦三郎(6代目),養子=尾上 梅幸(7代目),息子=尾上 九朗右衛門,孫=尾上 菊五郎(7代目),清元 延寿太夫(7代目)

親族
女婿=中村 勘三郎(17代目)

伝記
大向うの人々―歌舞伎座三階人情ばなし東京おぼえ帳最期の台詞―演劇人に学ぶ死の作法かぶき讃人と芸談―先駆けた俳優たち能・歌舞伎俳優たち終幕の思想―演劇人の死六代目 尾上菊五郎―全盛期の名人芸松緑芸話松緑芸話歌舞伎―過剰なる記号の森鏡獅子三代 勘九郎の挑戦―山川静夫・推理ドキュメント舞踊と身体 山川 静夫 著平山 蘆江 著北川 登園 著折口 信夫 著馬場 順 著塚本 康彦 著北川 登園 著木村 伊兵衛 撮影尾上 松緑 著尾上 松緑 著渡辺 保 著NHK取材班 著芦原 英了 著(発行元 講談社ウェッジSTUDIO CELLO中央公論新社演劇出版社朝日新聞社白水社ネスコ,文芸春秋〔発売〕講談社講談社新曜社日本放送出版協会新宿書房 ’09’09’07’04’99’94’93’93’92’89’89’87’86発行)


尾上 菊五郎(5代目)
オノエ キクゴロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
寺島 清

別名
初名=市村 竹松,前名=市村 羽左衛門(13代目)(イチムラ ウザエモン),市村 家橘(4代目),俳名=梅幸

屋号
音羽屋

生年月日
弘化1年 6月4日

出生地
江戸 浅草猿若町(東京都 台東区)

経歴
父は12代目市村羽左衛門で、母は3代目尾上菊五郎の二女。嘉永2年(1849年)市村九郎右衛門を名乗り「恵閏初夏藤」の蔦の者橘の市松役で初舞台を踏み、4年弱冠7歳で13代目市村羽左衛門の大名跡を襲名して市村座座主となる。安政4年(1857年)河竹新七(河竹黙阿弥)作「鼠小紋東君新形」の初演で蜆売三吉を演じたが、事前に深川まで蜆売の実態を見学に行くほどの熱の入り様で、幕末の名優といわれた4代目市川小団次に認められた。一方で初代花柳寿輔に師事し、踊りも学ぶ。文久2年(1861年)の河竹新七作「青砥稿花紅彩画」(白浪五人男)の初演では弁天小僧菊之助役に抜擢され、終生の当たり役とした。3年4代目市村家橘に改名。明治元年市村座を弟の市村竹松(坂東家橘)に市村座を譲って14代目市村羽左衛門の名跡を継がせ、自身は5代目尾上菊五郎を襲名。2年中村座座頭。以後、小団次の写実的芸風と自身の創意工夫とを合わせて独自の技芸を編み出し、9代目市川団十郎、初代市川左団次とともに“団菊左”と並び称せられて明治歌舞伎界の頂点を極めた。20年には井上馨邸において団十郎、左団次らと明治天皇の御前で「勧進帳」「高時」を演じ、歌舞伎の高尚さと芸術性、歌舞伎俳優の地位の向上に貢献。団十郎が演劇改良(活歴)を主導すると、それに対抗して文明開化の時代に即応した散切物を数多く上演するが、古くからの歌舞伎に親しんできた江戸っ子や識者の間では不評で、興行的には失敗。晩年は活歴で頓挫した団十郎と共に古典歌舞伎に戻ってその様式的完成に大きく寄与した。当たり役はほかに「仮名手本忠臣蔵」の勘平、「塩原太助一代記」の塩原太助、「義経千本桜」の忠信・いがみの権太、「盲長屋梅加賀鳶」の梅吉、「水天宮利生深川」の筆屋幸兵衛などで、世話物を得意とし、とくに生世話物の写実的演技に秀でた。「茨木」「土蜘」など能や狂言に題材をとった演目も多い。また、市川団十郎家の「歌舞伎十八番」に対抗し、菊五郎家のお家芸である「新古演劇十種」を選定した。著書に「尾上菊五郎自伝」がある。

没年月日
明治36年 2月18日 (1903年)

家族
長男=尾上 菊五郎(6代目),三男=坂東 彦三郎(6代目),父=市村 羽左衛門(12代目),祖父=尾上 菊五郎(3代目)

伝記
歌舞伎―研究と批評〈43〉特集 歌舞伎の反射鏡としての新派団菊以後明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎明治人物閑話歌舞伎百年百話明治人のお葬式人と芸談―先駆けた俳優たち幼少時代文化のクリエーターたち―江戸・東京を造った人々九代目団十郎と五代目菊五郎森銑三著作集〈続編 第6巻〉 人物篇〈6〉 歌舞伎学会 編伊原 青々園 著矢内 賢二 著森 銑三 著上村 以和於 著此経 啓助 著馬場 順 著谷崎 潤一郎 著東京人編集室 編小坂井 澄 著森 銑三 著(発行元 歌舞伎学会,雄山閣〔発売〕青蛙房白水社中央公論新社河出書房新社現代書館演劇出版社岩波書店都市出版徳間書店中央公論社 ’09’09’09’07’07’01’99’98’93’93’93発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「尾上菊五郎」の意味・わかりやすい解説

尾上菊五郎 (おのえきくごろう)

歌舞伎俳優。現在7世が存在する。屋号を音羽屋といい,市川家とならんで250年の歴史をもつ名門。(1)初世(1717-83・享保2-天明3) 京都の人。尾上左門の弟子で若女方の時,2世市川団十郎の《鳴神》に共演したのが出世役で,のち立役になり,広い芸幅をもった名優。《仮名手本忠臣蔵》の由良助と戸無瀬を替わったのは,この初世以来の演出。俳名を梅幸といい,のちにこれが芸名になった。(2)2世(1769-87・明和6-天明7) 初世の実子で,尾上丑之助から,1785年(天明5)菊五郎を襲名したが,若くして死んだので,舞台の上の成果はない。(3)3世(1784-1849・天明4-嘉永2) 江戸小伝馬町の建具屋の子。初世の門人で鶴屋南北の脚本で活躍した初世尾上松緑の弟子になり,一時2世松助ともいったが,1814年(文化11)3世梅幸,翌15年菊五郎を襲名した。文化・文政(1804-30)という時代を代表する名優で,写実的な芸をこしらえ,舞台の上のきめこまかい演出を整理する特色があった。また怪談狂言も得意で,《東海道四谷怪談》のお岩はその代表作。古典では《仮名手本忠臣蔵》の勘平,《義経千本桜》の権太,仁木弾正などの型を家に伝えた。美貌で,しかも実力があり,人気も抜群であった。一世一代を披露して引退。餅屋を開業したこともあったが,求められて再び役者になり,大川橋蔵(初世)という芸名で大坂に行った帰りに,掛川で客死した。江戸のいきな生世話をはじめた点でも演劇史上特記されていい。老年の俳名を梅寿という。(4)4世(1808-60・文化5-万延1) 大坂の人。中村歌六の弟子で,3世の娘と結婚。尾上栄三郎から4世梅幸となり,1855年(安政2)菊五郎を襲名するに至った。女方として,幕末の舞台で活躍。《与話情浮名横櫛(切られ与三)》のお富を初演したが,芸風としてはむしろ時代物が得意で,戸無瀬,《加賀見山旧錦絵(かがみやまこきようのにしきえ)》の尾上などが当り役であった。(5)5世(1844-1903・弘化1-明治36) 3世の娘の子で,本名寺島清。市村座の座元として13世市村羽左衛門となり,市村家橘から1868年(明治1)菊五郎をついだ。幕末から明治にかけて,9世市川団十郎,初世市川左団次とともに,団・菊・左とならび称され,家の芸といわれる写実的演技,手順のきまった型の完成,形式を重んじた芸風に特色を発揮した。古典では,勘平,権八,権太,福岡貢などの代表作もあるが,河竹黙阿弥が書いた《盲長屋梅加賀鳶》の2役,《天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)》の直次郎,3世河竹新七が書いた《塩原多助一代記》《怪異談牡丹灯籠》《江戸育御祭佐七》,竹柴其水が書いた《神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)(め組の喧嘩)》の辰五郎のような,生世話,いきな江戸っ子,悪人などが得意であった。新作舞踊として《茨木》《戻橋》《土蜘(つちぐも)》なども作り,新古演劇十種を家に残した。その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885-1949・明治18-昭和24) 5世の実子。弟に6世坂東彦三郎がいる。本名寺島幸三。幼年時代に9世団十郎に愛され,しこまれた踊りが,生涯の芸の特色で,《娘道成寺》《鏡獅子》など演目の数も多いが,親ゆずりの役は時代,世話ともにすぐれていた。1903年父の死の直後,9世団十郎にすすめられて菊五郎になり,やがて市村座に移り初世中村吉右衛門と,大正の団・菊という形の共演をした。そのころから新作にも力を入れ,長谷川時雨長田秀雄山本有三小山内薫,鈴木泉三郎,岡本綺堂,長谷川伸,宇野信夫という作家の作品にも傑作が少なくない。岡村柿紅の狂言舞踊も,市村座時代に初演された。30年日本俳優学校を創立,閉鎖まで3年校長をつとめた。《鏡獅子》と《勧進帳》の義経が映画になっている。座談の名手で,《芸》《おどり》などの著書と,膨大な写真帳が残された。芸術院会員。没後,文化勲章を贈られた。尾上九朗右衛門はその子である。(7)7世(1942(昭和17)- )7世梅幸の長男。本名寺島秀幸。丑之助,菊之助を経て,73年に菊五郎を襲名した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾上菊五郎」の意味・わかりやすい解説

尾上菊五郎
おのえきくごろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号音羽屋(おとわや)。


初世(1717―1783)京都生まれ。俳名梅幸(ばいこう)。劇場の出方(でかた)音羽屋半平の子。女方(おんながた)尾上左門の弟子になり、若衆方(わかしゅがた)、若女方(わかおんながた)で名をあげ、やがて立役(たちやく)に転じた。三都を往来して活躍、宝暦(ほうれき)~安永(あんえい)期(1751~1781)の代表的名優となった。当り役のうち『忠臣蔵』の由良之助(ゆらのすけ)は古今最高と評価され、生涯にしばしば演じた。ほかに戸無瀬(となせ)、勘平、『菅原(すがわら)』の菅丞相(かんしょうじょう)、松王丸などの当り役がある。


2世(1769―1787)初世の子。1785年(天明5)尾上丑之助(うしのすけ)から2世を襲名。美貌(びぼう)の若女方だったが、19歳で早世した。


3世(1784―1849)江戸の建具屋の子。初世の高弟尾上松助(松緑(しょうろく))の養子。栄三郎、2世松助、梅幸を経て、1815年(文化12)3世を襲名した。文化・文政期(1804~1830)の江戸劇壇で、万能の俳優として活躍した。容貌、風姿に優れ、和事(わごと)、実事(じつごと)を得意としたが、敵役(かたきやく)や女方もこなした。丸本系の時代物から4世鶴屋南北作の生世話(きぜわ)まで、芸域はきわめて広かった。養父松緑から受け継いだ怪談狂言の様式を洗練させ、大成したことは特筆すべきで、『四谷怪談』におけるお岩、小平、与茂七の3役は3世の初演した代表的な役である。1847年(弘化4)舞台を退き、浅草で餅(もち)屋を営んだが、大川橋蔵の名でふたたび地方の舞台に出た。大坂で病を得、江戸に帰る途中、遠州(静岡県)掛川で没した。


4世(1808―1860)3世の女婿。栄三郎、4世梅幸を経て1855年(安政2)4世菊五郎を襲名。女方専門で、とくに時代物の片はずしの役(政岡(まさおか)、重の井(しげのい)など)に適したが、世話物(せわもの)にも『切られ与三(よさ)』のお富のような当り役がある。


5世(1844―1903)3世の孫。本名寺嶋清。8歳で13世市村羽左衛門(うざえもん)を継ぎ、市村座の座元になった。俳優としては、14歳のときの『鼠小僧(ねずみこぞう)』の蜆売(しじみうり)三吉で4世市川小団次に認められ、19歳で初演した弁天小僧が出世芸となった。1868年(慶応4)8月、座元を弟に譲り、5世を襲名した。天性の様式美に加えて、4世小団次の写実的芸風を洗練し、いなせな江戸っ子の主人公役に独自の境地を開いた。9世市川団十郎とともに「団菊」と称され、明治の劇壇を代表する名優であった。「新古演劇十種」を制定、創演したほか、新時代に材を得た散切物(ざんぎりもの)を積極的に演じた。明治36年2月18日没。


6世(1885―1949)5世の長男。本名寺嶋幸三。1903年(明治36)2世丑之助(うしのすけ)から6世を襲名。幼時から9世市川団十郎に預けられて指導を受けた。大正期に二長町(にちょうまち)の市村座で初世中村吉右衛門(きちえもん)とともに「菊吉時代」とよぶ活気ある一時期を形成した。時代物、世話物、舞踊のいずれにも優れ、古典はむろんのこと新作にも意欲的で多くの傑作を生んだ。近代的で進取の気性に富んでいたので、古典を新解釈、新演出で演じ、また日本俳優学校を設立して校長となり、後継者の育成にも力を尽くした。1947年(昭和22)日本芸術院会員。昭和24年7月10日没。没後文化勲章を追贈された。芸談集『芸』(1946)、『おどり』(1948)がある。


7世(1942― )7世尾上梅幸の長男。本名寺嶋秀幸。1973年(昭和48)4世菊之助から7世を襲名した。花のある芸風で、女方と立役を兼ね、平成歌舞伎を代表する俳優の一人として活躍している。2000年(平成12)日本芸術院会員となり、2003年重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。長男が5世尾上菊之助(きくのすけ)(1977― )である。

[服部幸雄]

『5世尾上菊五郎著『五代尾上菊次郎』(1997・日本図書センター)』『戸板康二著『六代目菊五郎』(講談社文庫)』『大倉舜二写真『七代目菊五郎の芝居』(1989・平凡社)』


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百科事典マイペディア 「尾上菊五郎」の意味・わかりやすい解説

尾上菊五郎【おのえきくごろう】

歌舞伎俳優。屋号音羽(おとわ)屋。初世〔1717-1783〕は初め京都で女方をやっていたが,のち2世市川團十郎に認められ,江戸へ下って立役(たちやく)となり,《忠臣蔵》の由良之助・勘平,《菅原》の菅丞相などを得意とした。3世〔1784-1849〕は初世尾上松助の養子。演技,容姿ともにすぐれ,世話物を得意とし,4世鶴屋南北と提携して《四谷怪談》をはじめ多くの怪談劇を完成させた。化政期を代表する名優。5世〔1844-1903〕は3世の孫で,13世市村羽左衛門を名乗ってから1868年菊五郎を襲名。祖父譲りの世話物・怪談物が得意で,弁天小僧や《忠臣蔵》の勘平などが当り役。明治の劇壇で9世団十郎と拮抗し,尾上家の家の芸新古演劇十種を制定。6世〔1885-1949〕は5世の長男。近代的な写実芸の名優で,古典から新作まで,あらゆる分野の役柄をこなし,ことに世話物と舞踊にすぐれた。昭和初期に日本俳優学校を設立。没後,1949年文化勲章。7世は6世の孫菊之助〔1942-〕が1973年襲名。
→関連項目市川左団次市村座音羽屋尾上松緑尾上梅幸土蜘/土蜘蛛(演劇)中村吉右衛門中村芝翫パブロワ

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朝日日本歴史人物事典 「尾上菊五郎」の解説

尾上菊五郎(5代)

没年:明治36.2.18(1903)
生年:弘化1.6.4(1844.7.18)
幕末明治期の歌舞伎役者。俳名梅幸,3代目菊五郎の次女とはの婿12代目市村羽左衛門の次男で,本名は寺島清。嘉永2(1849)年竹松を名乗って初舞台。市村座の座元,役者として13代目市村羽左衛門を継ぎ,4代目家橘を経て,明治1(1868)年5代目菊五郎を襲名。幼少から生世話物の名人といわれた4代目市川小団次の指導を,また初代花柳寿輔に日本舞踊の教えを受けた。安政4(1857)年に14歳で演じた河竹黙阿弥作「鼠小紋東君新形」(通称「鼠小僧」)の蜆売三吉や,19歳で演じた文久2(1862)年上演の同「青砥稿花紅彩画」の弁天小僧役が出世芸となる。以後,9代目市川団十郎,初代市川左団次と共に団菊左と並び称され,明治劇壇を代表する3頭目のひとりとして活躍した。特に5代目菊五郎は二枚目の立役,女形の技芸に優れ,家の芸として伝承されてきた写実的な演技を生かして,黙阿弥と提携した世話物,特に生世話物に本領を発揮した。 9代目団十郎の活歴物に対抗した散切物(文明開化の時代に即応して,従来の世話物の手法を踏襲しながら新風俗を大胆にとり入れた作品群。丁髷を切った散切り頭の人物が,西欧の服装,持ち物などを身につけて登場するところからつけられた名称)を数多く上演した。しかし江戸末期から歌舞伎を愛好してきた観客に皮相な風俗劇は愛好されず,その後は9代目団十郎とともに古典歌舞伎の形式を重んじた様式的な型の完成に積極的に取り組み,優れた業績を残した。また能狂言に材をとった松羽目物の舞踊劇「茨木」「土蜘」なども作り,市川家の「歌舞伎十八番」「新歌舞伎十八番」に対抗して,尾上菊五郎家の「新古演劇十種」を制定した。その写実的な芸風は,大正昭和期歌舞伎を代表する長男の6代目菊五郎,15代目羽左衛門に受け継がれていった。<参考文献>伊原敏郎『明治演劇史』,伊坂梅雪編『五代目菊五郎自伝』

(藤波隆之)


尾上菊五郎(3代)

没年:嘉永2.閏4.24(1849.6.14)
生年:天明4(1784)
文化文政期の歌舞伎役者。俳名梅幸。江戸の建具屋に生まれ,初代尾上松助の養子となり,尾上栄三郎の名で初舞台。文化5(1808)年の鶴屋南北作「彩入御伽草」で父松助の代役を勤めて大当たりを取り,翌年「阿国御前化粧鏡」の天竺徳兵衛,累を演じて注目された。以後「心謎解色糸」のお祭り左七,「絵本合法衢」のうんざりお松,「仮名手本忠臣蔵」の勘平,「伊勢音頭恋寝刃」の福岡貢などの当たり役を得た。文化12年3代目菊五郎を襲名したころから座頭格となり,「浮世柄比翼稲妻」の名古屋山三,「法懸松成田利剣」の累などを経て,文政8(1825)年南北の傑作「東海道四谷怪談」でお岩など3役を演じ,生涯の当たり役とした。名優の名をほしいままにしたのち弘化4(1847)年引退後も,大川橋蔵の名で再び舞台に立ち,66歳で没した。父の衣鉢を受け怪談物の早替わりを得意にし,和事,実事によく,容貌と風姿に優れて女形もできたが,踊りは不得意だった。当たり役はほかに「菅原伝授手習鑑」の菅丞相,桜丸,「義経千本桜」の権太,「加賀見山」の岩藤,お初など。役柄,演技の研究に熱心だったが,自負心が強すぎ,人と争い,作品に口出ししたのは惜しまれる。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』,井草利夫『近世劇文学便覧』

(井草利夫)


尾上菊五郎(初代)

没年:天明3.12.29(1784.1.21)
生年:享保2(1717)
江戸中期の歌舞伎役者。京都生まれ。都万太夫座の出方(客の案内・世話係)音羽屋半平の子。若女形尾上左門の門弟。幼名竹太郎。現代に至る江戸歌舞伎界の名家尾上家の祖。屋号は代々音羽屋,俳名梅幸。若衆形,若女形から立役に転じて武道実事を得意とした。女形時代の寛保2(1742)年大坂で2代目市川海老蔵(のちの2代目団十郎)と共演した『鳴神不動北山桜』の雲の絶間役が好評で海老蔵に認められ,同年ともに江戸に下った。宝暦2(1752)年立役に転じ,以後江戸と京坂を往来して活躍した。容貌風姿に優れ,花実の備わった芸で人気を得た。当たり役として女形の雲の絶間,立役で大星由良之助などが名高い。明和3(1766)年,江戸堺町で営んでいた油店から出火して中村・市村両座を焼失させた火事は「菊五郎油見世火事」と呼ばれ,江戸人の反感を買った逸話は有名。大坂で没。初代の実子丑之助が天明5(1785)年に2代目菊五郎を襲名したが,同7年夭逝。<参考文献>伊原敏郎『日本演劇史』,『演劇界増刊「尾上菊五郎」』1973年,戸板康二『尾上菊五郎』

(池上文男)


尾上菊五郎(4代)

没年:万延1.6.28(1860.8.14)
生年:文化5(1808)
江戸後期の歌舞伎役者。女形。通称梅幸菊五郎。屋号音羽屋。大坂で生まれ,中村歌六に入門。京坂の宮芝居で修業し,天保2(1831)年,3代目尾上菊五郎の女婿となり,尾上栄枝と改めて師匠について江戸へ下り,3代目栄三郎,4代目梅幸と改名。江戸で名をあげ,安政2(1855)年に4代目菊五郎を襲名する。落ち着いた気品のある風姿で,娘役より年増役,世話物より時代物に適した。ベタベタした台詞回しは,伝法肌の役柄には不向きであった。当たり役に政岡,戸無瀬,定高,お岩など。53歳で没するが,妻お蝶も同日に後を追うように息を引き取ったという。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』,3代目中村仲蔵『手前味噌』(郡司正勝校訂/復刻,1969)

(赤間亮)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「尾上菊五郎」の解説

尾上 菊五郎(6代目)
オノエ キクゴロウ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治18(1885)年8月26日

没年
昭和24(1949)年7月10日

出生地
東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区)

本名
寺島 幸三

別名
初名=尾上 幸三,前名=尾上 丑之助(2代目),俳号=三朝

屋号
音羽屋

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和24年〕

経歴
5代目尾上菊五郎の長男。明治19年尾上幸三の名で初舞台、父と9代目市川団十郎に師事。24年2代目尾上丑之助を名のり、36年に6代目菊五郎を襲名。41年下谷二長町の市村座に移り、昭和2年まで中村吉右衛門(1代目)と並んで名声をあげ、“菊吉時代”“二長町時代”を築いた。昭和5年には日本俳優学校を創立するなど多方面に活躍。勘平、判官、弁天小僧、仁木などを得意としたが、時代物、世話物、舞踊のすべてにすぐれ、20世紀の歌舞伎史で最も重要な名優といわれる。また、近代的な歌舞伎リアリズムを確立し、現代歌舞伎に多大な影響を与えた。昭和21年芸術院会員、24年没後、歌舞伎俳優としてははじめての文化勲章を受章。著書に「芸」「をどり」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾上菊五郎」の解説

尾上菊五郎
おのえきくごろう

歌舞伎俳優。江戸中期から7世を数える。屋号は音羽屋。初世(1717~83)は江戸中期立役の名優。京都生れ。尾上左門の門弟。女方から転じ,武道事・実事(じつごと)を得意とした。俳名梅幸。3世(1784~1849)は化政期の名優。江戸生れ。初世の高弟尾上松助の養子。風姿にすぐれ,舞踊以外ほぼすべての役柄に評価をうけ,生世話(きぜわ)・怪談物を得意とした。俳名梅寿。5世(1844~1903)は3世の孫。本名寺島清。9世市川団十郎・初世市川左団次とともに明治劇壇を代表する俳優で「団菊左」と並び称された。河竹黙阿弥と結んでの生世話物,御家の怪談狂言,舞踊劇などに技芸を示す。新古演劇十種を制定・創演。6世(1885~1949)は昭和前期歌舞伎の第一人者。5世の長男。東京都出身。本名寺島幸三。繊細な技芸に精神的解釈を加えて評価をうけた。芸術院会員。文化勲章受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾上菊五郎」の解説

尾上菊五郎(7代) おのえ-きくごろう

1942- 昭和後期-平成時代の歌舞伎役者。
昭和17年10月2日生まれ。7代尾上梅幸の長男。富司純子(ふじ-すみこ)の夫。昭和23年初舞台。父の芸を継承し,女方をつとめ,48年7代尾上菊五郎を襲名。以後,江戸世話物の立役(たちやく)で活躍。62年芸術院賞。平成12年芸術院会員。15年歌舞伎立役で人間国宝。21年「小町村芝居正月」「魚屋宗五郎」などの成果で毎日芸術賞。東京出身。森村学園高卒。本名は寺嶋秀幸。初名は5代尾上丑之助。前名は4代尾上菊之助。屋号は音羽屋。

尾上菊五郎(6代) おのえ-きくごろう

1885-1949 明治-昭和時代の歌舞伎役者。
明治18年8月26日生まれ。5代尾上菊五郎の長男。明治19年東京千歳座で初舞台。36年歌舞伎座で6代目を襲名。初代中村吉右衛門とともに「菊吉時代」をきずいた。昭和5年日本俳優学校を設立。芸術院会員。24年文化勲章。昭和24年7月10日死去。65歳。東京出身。本名は寺島幸三。前名は2代尾上丑之助。俳名は三朝。屋号は音羽屋。
【格言など】まだ足らぬ踊りをどりてあの世まで(辞世)

尾上菊五郎(5代) おのえ-きくごろう

1844-1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
天保(てんぽう)15年6月4日生まれ。12代市村羽左衛門の次男。13代市村羽左衛門,4代市村家橘(かきつ)をへて,慶応4年5代菊五郎を襲名。9代市川団十郎とともに「団菊」とよばれ,名優として知られた。世話物で写実芸をみせ,家の芸「新古演劇十種」を制定した。明治36年2月18日死去。60歳。江戸出身。本名は寺島清。幼名は市村九郎右衛門。俳名は梅幸。屋号は音羽屋。

尾上菊五郎(初代) おのえ-きくごろう

1717-1784* 江戸時代中期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)2年生まれ。尾上左門の弟子となり,享保15年京都で初舞台。寛保(かんぽう)2年2代市川団十郎の「鳴神」で雲の絶間姫(たえまひめ)を演じて好評をえる。若衆方,女方を得意としたが,のち立役(たちやく)に転じ,江戸,上方で活躍した。天明3年12月29日死去。67歳。京都出身。幼名は竹太郎。俳名は梅幸。屋号は音羽屋。

尾上菊五郎(3代) おのえ-きくごろう

1784-1849 江戸時代後期の歌舞伎役者。
天明4年2月生まれ。初代尾上松助の養子となる。天明8年初舞台。初代栄三郎,2代松助,3代梅幸をへて,文化12年3代菊五郎を襲名。立役(たちやく),実悪,女方をかねた。当たり役に「四谷怪談」のお岩,「忠臣蔵」の勘平など。嘉永(かえい)2年閏(うるう)4月24日死去。66歳。後名は初代大川橋蔵。屋号は音羽屋。

尾上菊五郎(4代) おのえ-きくごろう

1808-1860 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文化5年生まれ。初代中村歌六の門下。天保(てんぽう)2年3代菊五郎の娘婿となり,若女方として時代物を得意とした。安政2年江戸市村座で4代を襲名。万延元年6月28日死去。53歳。大坂出身。幼名は中村辰蔵。初名は中村歌蝶。前名は尾上菊枝,3代尾上栄三郎,4代尾上梅幸。俳名は梅幸。屋号は音羽屋。

尾上菊五郎(2代) おのえ-きくごろう

1769-1787 江戸時代中期の歌舞伎役者。
明和6年生まれ。初代尾上菊五郎の子。安永5年京都藤川座で初舞台。7年江戸市村座に父とともに出演し好評をえる。天明5年2代襲名。天明7年7月12日周防(すおう)(山口県)三田尻に興行にいく途中病死。19歳。京都出身。初名は初代尾上丑之助。俳名は梅幸。屋号は音羽屋。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾上菊五郎」の意味・わかりやすい解説

尾上菊五郎(5世)
おのえきくごろう[ごせい]

[生]弘化1(1844)
[没]1903. 東京
歌舞伎俳優。屋号音羽屋。 12世市村羽左衛門の次男。本名寺嶋清。明治1 (1868) 年5世襲名。立役。河竹黙阿弥生世話物に傑作を生んだ。舞踊にもすぐれ,家の芸として新古演劇十種を制定。9世市川団十郎,1世市川左団次とともに「団菊左」と並び称される明治期の名優。

尾上菊五郎(6世)
おのえきくごろう[ろくせい]

[生]1885.8.26. 東京
[没]1949.7.10. 東京
歌舞伎俳優。屋号音羽屋。5世尾上菊五郎の長男。本名寺嶋幸三。 1903年6世襲名。立役,女方を兼ねる。時代,世話,舞踊,新作あらゆる役をよくした。日本俳優学校を設立,後進の養成に努めた。大正,昭和期の名優。日本芸術院会員。没後ただちに文化勲章が贈られた。同章追贈の第一号。

尾上菊五郎(3世)
おのえきくごろう[さんせい]

[生]天明4(1784)
[没]嘉永2(1849).江戸
歌舞伎俳優。屋号音羽屋。1世尾上松助の養子。前名2世松助。文化 12 (1815) 年3世襲名。立役で女方も兼ねた。生世話物を得意とし,鶴屋南北の怪談劇で名声を得た。化政期の名優。

尾上菊五郎(1世)
おのえきくごろう[いっせい]

[生]享保2(1717).京都
[没]天明3(1783).京都
歌舞伎俳優。屋号音羽屋。1世坂東彦三郎の女婿。初め女方,のち立役。宝暦,明和期の名優。当り役は『仮名手本忠臣蔵』の由良之助,『菅原伝授手習鑑』の菅丞相など。

尾上菊五郎(7世)
おのえきくごろう[ななせい]

[生]1942.10.2. 東京
歌舞伎俳優。屋号音羽屋。7世尾上梅幸の長男。本名寺嶋秀幸。 1973年菊之助より7世襲名。初め女方に専念したが,近年は立役にも優れる。 1986年日本芸術院賞受賞。 2003年重要無形文化財保持者に認定された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尾上菊五郎」の解説

尾上菊五郎
おのえきくごろう

歌舞伎俳優。屋号は音羽 (おとわ) 屋
〔5代目(1844〜1903)〕明治時代に活躍。世話物の演技にすぐれ,9代目市川団十郎・初代市川左団次とともに団菊左時代を現出。〔6代目(1885〜1949)〕 大正・昭和期の名優。5代の子。舞踊・世話物にすぐれ,1949年,歌舞伎界初の文化勲章を受章した。

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367日誕生日大事典 「尾上菊五郎」の解説

尾上 菊五郎(6代目) (おのえ きくごろう)

生年月日:1885年8月26日
明治時代-昭和時代の歌舞伎役者
1949年没

尾上 菊五郎(7代目) (おのえ きくごろう)

生年月日:1942年10月2日
昭和時代;平成時代の歌舞伎俳優

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世界大百科事典(旧版)内の尾上菊五郎の言及

【大石良雄】より

…体軀堂々たる偉丈夫という大石の人物像は,《大矢数四十七本》(1747初演)の主人公大岸宮内(大石良雄にあたる)を演じて大当りをとった初代沢村宗十郎が決定づけた。その後さらに名優たちのすぐれた点をとり入れて由良助像を完成したのが,初代尾上菊五郎であった。《古今いろは評林》では,〈家老職の体(てい)・ほど・位を考へて,菊五郎を最上ともいふなるべし〉という評価を与えられている。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【尾上松助】より

…(1)初世 初世尾上松緑の前名。(2)2世 3世尾上菊五郎の前名。(3)3世(1805‐51∥文化2‐嘉永4) 3世菊五郎の長男として江戸に生まれ,1815年(文化12)3世松助を襲名。…

【歌舞伎】より

…だが,南北の才能も,個性の強烈な実力派の役者たちがいてこそ花開いたものである。初世尾上松助(松緑),5世松本幸四郎,5世岩井半四郎,3世坂東三津五郎,7世市川団十郎,3世尾上菊五郎らの実力と個性をよく見きわめ,彼らの芸の魅力を十分に計算した上での作劇の成功が,南北を名作者たらしめたのである。南北の作品の中で,とくに〈色悪〉〈悪婆〉という新しい人間像の典型が確立したことも忘れられない。…

【東海道四谷怪談】より

…絵本番付によれば,初日は《忠臣蔵》の大序から六段目までと《四谷怪談》の序幕から三幕目隠亡堀の場まで,2日目はふたたび隠亡堀から始めて《忠臣蔵》の七,九,十段目になり,そのあとに《四谷怪談》四,五幕が続き,最後が《忠臣蔵》十一段目(討入)となっている。お岩・小平・与茂七を3世尾上菊五郎,伊右衛門を7世市川団十郎,直助を5世松本幸四郎。 (1)序幕(浅草境内の場,宅悦地獄宿の場,浅草裏田圃(たんぼ)の場) 高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫娘お梅は民谷伊右衛門に恋慕している。…

【斧琴菊文】より

…謎染の新形浴衣(ゆかた)〉とあるように,文化年間(1804‐18)以降流行をみた。またのちにこの文様は尾上菊五郎の歌舞伎衣装にも採用された。おそらく1815年に襲名した3世菊五郎がその芸名の菊にちなみ,また当時流行していた市川団十郎の〈鎌輪奴(かまわぬ)文〉にはり合って取り入れたものと思われる。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【歌舞伎】より

…だが,南北の才能も,個性の強烈な実力派の役者たちがいてこそ花開いたものである。初世尾上松助(松緑),5世松本幸四郎,5世岩井半四郎,3世坂東三津五郎,7世市川団十郎,3世尾上菊五郎らの実力と個性をよく見きわめ,彼らの芸の魅力を十分に計算した上での作劇の成功が,南北を名作者たらしめたのである。南北の作品の中で,とくに〈色悪〉〈悪婆〉という新しい人間像の典型が確立したことも忘れられない。…

【芸談】より

…近代には,〈芸談〉が読み物の一種として歓迎された。その中心は歌舞伎俳優の芸談で,9世市川団十郎の《団州百話(だんしゆうひやくわ)》(1903,松居松葉編),5世尾上菊五郎の《尾上菊五郎自伝》(1903,伊坂梅雪編)が先蹤(せんしよう)となり,以後《魁玉夜話(かいぎよくやわ)》(5世中村歌右衛門),《》《おどり》(6世尾上菊五郎),《梅の下風》《女形の事》(6世尾上梅幸),《松のみどり》(7世松本幸四郎),《三津五郎芸談》(7世坂東三津五郎)など,数多くのすぐれた芸談の書物が出版され,こんにちでは歌舞伎の伝承と創造にとって貴重な財産となっている。歌舞伎以外の分野では,能,狂言で《六平太芸談》(喜多六平太),《兼資芸談》(野口兼資),《万三郎芸談》(梅若万三郎),《狂言八十年》(茂山千作),《狂言の道》(野村万蔵)など,人形浄瑠璃で《吉田栄三自伝》,《文五郎自伝》(吉田文五郎),《山城少掾聞書》(豊竹山城少掾)などがそれぞれ代表的な書物である。…

【土蜘∥土蜘蛛】より

…巣糸のかたまりを掌中や身の回りに隠しておいて,次々に繰り出すのが見ものであるが,劇としての内容に乏しいので,近年は上演回数が減っている。【横道 万里雄】(2)歌舞伎舞踊,長唄 1881年6月,新富座で5世尾上菊五郎が3世の33回忌に初演の《土蜘》。作詞河竹黙阿弥,作曲3世杵屋(きねや)正次郎,振付初世花柳寿輔。…

【鼠小紋東君新形】より

…1857年(安政4)1月江戸市村座初演。配役は鼠小僧次郎吉こと稲葉幸蔵を4世市川小団次,幸蔵養母お熊・早瀬弥十郎・次郎太夫を坂東亀蔵,与之助を河原崎権十郎(のちの9世市川団十郎),お高・松山・若草を4世尾上菊五郎,新助・伊之助を5世坂東彦三郎,与惣兵衛を2世浅尾与六,蜆売り三吉を13世市村羽左衛門(のちの5世尾上菊五郎)など。1832年(天保3)に処刑された鼠小僧の実説をふまえた2世松林(しようりん)伯円の講談をもとに脚色された。…

【松羽目物】より

…明治期に入って,歌舞伎の改良運動に伴う高尚趣味によって,能,狂言様式の舞踊が作られた。まず5世尾上菊五郎が1881年,市川家の《勧進帳》をまねて《土蜘(つちぐも)》を作った。ついで82年9世市川団十郎が《釣狐》,85年に《船弁慶》を初演した。…

【三千歳】より

…作詞河竹黙阿弥,作曲2世清元梅吉(清元お葉の説もある)。1881年3月,5世尾上菊五郎,8世岩井半四郎ほかで東京新富座初演。《天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)》の6幕目〈大口屋寮の場〉の狂言浄瑠璃。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【敵討天下茶屋聚】より

…〈天王寺〉の酒乱の段取りの面白さ,引窓から忍びこむところのユーモラスな演技,引込みのときに刀を振りまわして見せる心理描写など随所で精彩を放つ。4世友右衛門によって作られたこの小心な悪人の演出は近代に継承されたが,特に6世尾上菊五郎は,伝統の演出をさらに近代的に個性化して一代の当り芸とした。この芝居全体にただよう仇討物独特の情趣,特に〈天神の森〉の色彩的設定による〈返り討の場〉から〈川下の場〉のだんまりに至る味わいは卓越している。…

【芸】より

…歌舞伎役者の芸談集。6世尾上菊五郎著。1946年刊。…

【摂州合邦辻】より

…主として〈合邦庵室〉の一幕が上演され,明治の2世坂東秀調以降,玉手の役は女方にとっての試金石とされてきた。今日では,もっぱら5世中村歌右衛門と6世尾上菊五郎との二つの型が行われている。【原 道生】。…

【高杯】より

…長唄。1933年9月6世尾上菊五郎,7世坂東三津五郎ほかにより東京劇場初演。作詞久松一声。…

【蔦紅葉宇都谷峠】より

…名人小団次と黙阿弥という幕末歌舞伎を代表するコンビは,この一作によって確立された。近代では6世尾上菊五郎の文弥,仁三の二役と初世中村吉右衛門の十兵衛が好評。早替りと殺し場が際立つため小芝居向きとして軽視されがちだったが,じつは義理と因果にあえぐ人物を活写した重厚な作。…

【花柳流】より

…初世は振付の才能に恵まれ,幕末から明治の劇壇で名振付師として活躍したが,9世市川団十郎と不和が生じ,劇壇から遠ざかり,1903年没した。実子の花柳芳三郎は6世尾上菊五郎の門弟として俳優修業を志したが,18年門弟たちに望まれ,2世寿輔を襲名した。2世は義兄花柳徳太郎とともに時流にのり,全国各地に流勢を拡張したが,古典の伝承だけにとらわれず,新舞踊運動の先達としても活躍,名実ともに一大流派としての基盤を固めた。…

【羽根の禿】より

…江戸の初春,吉原の廓の門口で,禿が羽根つきをして無邪気に遊ぶ風景を描写。1931年3月東京劇場で6世尾上菊五郎が,愛らしく見せるために大道具や振りに工夫を凝らして踊ってから,人気曲となった。【服部 幸雄】。…

【坂東流】より

…6世は5世の実子で,門弟を養成して流派を隆昌に導いた。7世は12世守田勘弥の長男で,大正・昭和を通じ名人として6世尾上菊五郎とならび称せられた。8世はその養子。…

【棒縛∥棒しばり】より

…5世杵屋(きねや)巳太郎作曲。6世尾上菊五郎振付。1916年1月東京市村座で初演。…

【松羽目物】より

…明治期に入って,歌舞伎の改良運動に伴う高尚趣味によって,能,狂言様式の舞踊が作られた。まず5世尾上菊五郎が1881年,市川家の《勧進帳》をまねて《土蜘(つちぐも)》を作った。ついで82年9世市川団十郎が《釣狐》,85年に《船弁慶》を初演した。…

【尾上菊五郎】より

…その芸は15世羽左衛門と,実子の6世菊五郎がついだ。写真集にみごとな容姿が残っているほか,伊坂梅雪が筆記した《尾上菊五郎自伝》という好著がある。(6)6世(1885‐1949∥明治18‐昭和24) 5世の実子。…

【新古演劇十種】より

…歌舞伎用語。尾上菊五郎家の〈家の芸〉。市川団十郎家の〈歌舞伎十八番〉〈新歌舞伎十八番〉に対抗して,5世菊五郎が選定を企て,6世菊五郎が完成。…

※「尾上菊五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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