平賀村(読み)ひらかむら

日本歴史地名大系 「平賀村」の解説

平賀村
ひらかむら

[現在地名]印旛村平賀・平賀学園台ひらかがくえんだい

山田やまだ村の南東、印旛沼に半島状に突き出した台地先端に位置し、東・南の二方は沼に面し、対岸はそれぞれ下方したかた(現成田市)中川なかがわ(現酒々井町)浜宿はまじゆく河岸(現佐倉市)酒々井しゆすい(現酒々井町)と渡しで結ばれていた。北方の沼中にある花島はなしま山は俗にはな島とも書き、丘上には大日本だいにほん寺があったという(利根川図志)。応永七年(一四〇〇)七月二五日の円覚寺新文書目録(円覚寺文書)に平賀村とみえ、同二年に高宮平次入道が当地を鎌倉公方から与えられている。当地を含むとみられる印西いんざい(印西庄)は室町期には鎌倉円覚寺領で、当地を知行した高宮入道は同寺に年貢を納めていたと考えられる。天正一〇年(一五八二)六月三日、原胤栄は臼井うすい(現佐倉市)・平賀・山田の百姓らが円天えんてん寺に寄進した門前の寺領に対し、守護不入の特権を認めており(「原胤栄判物写」常陸遺文)、当地は山田とともに原氏の支配下にあった。


平賀村
ひらがむら

[現在地名]佐久市大字平賀

現佐久市の東部に位置する。富岡とみおか(国道二五四号)が村を東西に貫き、道沿いに西から荒家あらや下宿しもじゆく・中宿・上宿の集落が続く。富岡道にほぼ並行して流れる内山うちやま川沿いに北口きたぐち荒神あらかみ、川を越えて北に北耕地きたこうちの集落があり、北耕地は樋村ひむら後家ごかに分れている。永仁二年(一二九四)一〇月二七日の小早川家文書に「平賀郷滑瀬内田屋敷」とある。

現平賀小学校付近に中屋敷なかやしき古墳があり、古墳東方に上宿古墳群がある。小規模な横穴式のものである。北の後家山東半部南斜面の東姥石ひがしうばいし月崎つきざき地籍には佐久平ゴルフ場古墳群がある。古墳群は後家山の西麓にもあったが、すべて既掘である。村の東南隅にある平賀城跡の北麓にも既掘の古墳がある。


平賀村
ひらがむら

[現在地名]松戸市平賀

幸田こうで村の南東、中金杉なかかなすぎ村の東、下総台地西端部に位置する。日蓮宗の古刹本土ほんど寺があり、元禄年中(一六八八―一七〇四)頃までは本土寺ほんどじ村と称していたが、のち平賀村と改称した。また周辺には殿平賀とのひらが村・久保平賀くぼひらが村・東平賀村など平賀を付した村名があり、中世には当村およびこれら諸村を含む一帯は風早かざはや庄のうちで平賀(平賀郷)とよばれていたと思われる。「本土寺過去帳」には平賀および平賀を冠する地名が散見する。年紀の早いものは、応永七年(一四〇〇)六月とある一九日の妙心尼で「平賀」との注記がある。


平賀村
びらがむら

[現在地名]沙流さる門別町字平賀・字福満ふくみつ富川東とみかわひがし一―六丁目・富川駒丘とみかわこまおかなど

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治四二年(一九〇九)までの村。沙流郡南西部に位置し、南は佐瑠太さるふと村に、西は勇払ゆうふつ郡に、東は門別村に、北は荷菜摘になつみ(現平取町)に接する。村域は南西に流れる沙流川の東西にまたがり、西岸肥沃な低地、東岸は丘陵地である(「状況報文」など)近世史料ヒラカとみえる地などを含む。明治六年七月の「日高国地誌提要」に平賀村とある。明治三年沙流郡西部に仙台藩移民が入地、当村には同藩移民士族の従者であった南部出身者が入り、農業に従事した(日高開発史)


平賀村
ひらがむら

[現在地名]新潟市平賀

嘉喜かぎ村の南、信濃川右岸の旧蛇行跡沿いに立地。永禄年間(一五五八―七〇)の開発と伝える。寛永一六年(一六三九)の横越島絵図(青木正昭氏蔵)に村名がみえ、正保国絵図では高三五石余とあり、沢海藩領。同藩改易後幕府領、宝永四年(一七〇七)に旗本小浜氏領、天保一五年(一八四四)から再び幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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