広井勇
ひろいいさみ
(1862―1928)
築港および橋梁(きょうりょう)技術の世界的権威。キリスト教を奉ずる高潔な土木技術者。土佐国佐川村(高知県佐川町)に生まれる。東京外国語学校、工部大学校(後の東京大学工学部)予科を経て札幌農学校を1881年(明治14)卒業。開拓使鉄路課に勤務、北海道最初の鉄道、小樽(おたる)―幌内(ほろない)間の工事を担当。渡米してミシシッピ川改良工事、橋梁設計の体験、ドイツ留学を経て帰国。1889年札幌農学校教授兼北海道土木課長。港湾工事の範とされる小樽築港などを完成。1899年東京帝国大学教授に転任。港湾、水力発電、橋梁設計などを大学および各地で実務指導。1905年(明治38)名著『The Statically Indeterminate Stresses in Frames Commonly Used for Bridges』をニューヨークで出版。『築港』前・後編(1898)、『日本築港史』(1927)はとくに名著の誉れ高い。
[高橋 裕]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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広井 勇
ヒロイ イサム
明治・大正期の土木工学者 東京帝国大学教授。
- 生年
- 文久2年9月2日(1862年)
- 没年
- 昭和3(1928)年10月1日
- 出生地
- 土佐国高岡郡佐川村(高知県)
- 学歴〔年〕
- 工部大学予科,札幌農学校〔明治14年〕卒
- 学位〔年〕
- 工学博士〔明治32年〕
- 経歴
- 土佐藩士広井喜十郎の長男。札幌農学校では新渡戸稲造、内村鑑三らと同期。明治14年開拓使御用掛を経て、15年上京し工部省鉄道局に勤務、日本鉄道会社の東北線建設を監督した。16年渡米、さらにドイツに渡ってシュトゥットガルト工科大学で学び、22年帰国、札幌農学校教授に就任。この間、函館、小樽などの港湾事業に参画し完成させた。32年東京帝大工科大学教授となり、橋梁工学を担当。以後20年間帝大教授を務める傍ら、土木学会会長のほか、震災予防調査会、港湾調査会などの委員を歴任し、日本土木界の草分けとして活躍。小樽港防波堤建設、日本初のコンクリート橋建設(仙台)、小倉築港、鬼怒川水力電気事業などに功績を残した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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広井勇
ひろいいさむ
[生]文久2(1862).土佐
[没]1928.10.
土木工学者。札幌農学校卒業 (1881) 。アメリカに渡り (83) ,ミシシッピ川治水工事,橋梁会社に勤務。その後ドイツに渡り,シュツットガルト工科大学を卒業 (89) 。帰国後,ただちに札幌農学校教授となる。東京大学教授となり (99) ,約 20年間工学部の橋梁工学を担当する。震災予防調査会,港湾調査会などの委員としても活躍,土木界に尽すところきわめて大きい。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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広井勇 ひろい-いさむ
1862-1928 明治-昭和時代前期の土木工学者。
文久2年9月2日生まれ。開拓使御用掛などをへて,欧米に留学。明治22年母校札幌農学校の教授となり,北海道庁技師をかねた。32年東京帝大教授。土木学会会長。築港,橋梁技術における日本土木界の草分け的存在で,道内の鉄道建設や小樽などの築港につくした。昭和3年10月1日死去。67歳。土佐(高知県)出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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広井 勇 (ひろい いさむ)
生年月日:1862年9月2日
明治時代;大正時代の土木工学者。東京帝国大学教授;土木学会会長;工学博士
1928年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の広井勇の言及
【関門橋】より
…使用した鋼材の総重量は3万2000t,コンクリートの総量は15万m3にのぼる。 本州と九州を交通路で直結する計画も,大正年間の東京大学教授広井勇による計画報告をはじめとして,かなり古くから関心をもたれていた。1930年代半ばには内務省土木局が現在の橋とほぼ同規模のつり橋を計画したこともあったが,軍部の反対で日の目を見なかった。…
※「広井勇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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