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土木技術 どぼくぎじゅつ

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世界大百科事典 第2版の解説

どぼくぎじゅつ【土木技術】

土木技術はもっとも古い歴史をもつ技術といわれる。人類が登場して生活を営み始めるにあたって,竪穴住居をつくるにしてもまず土地を掘削する必要があったし,歩いていくためには原始的な道を切り開いたり,木の橋を架け渡さなければならなかったであろう。農耕が始まればそのための灌漑や排水のための施設が不可欠となり,さらに権力の象徴としての大規模な墳墓などもつくられている。古代以来技術の中心は土木技術であったといっても過言ではなく,土木技術はしばしば〈技術の中の技術〉とまでいわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

土木技術
どぼくぎじゅつ

われわれの社会的活動の基盤となる種々の構造物や施設を整備、運用し、あるいは、それらをおもな手段として自然環境および社会環境を開発、保全するために必要とされるすべての技術。すなわち、橋梁(きょうりょう)、トンネル、ダムなどの構造物、道路、鉄道、港湾、空港、パイプライン、アンテナ塔、ケーブル溝などの交通・通信施設、上・下水、電気、ガス、ごみなどの給排・処理施設、燃料、食糧などの備蓄施設、水力・火力・原子力・地熱発電などのエネルギー施設、河川、海岸、山岳、傾斜地、都市などの水路・防災施設、公園、緑地などの公共空地、農・水産業、工業、その他産業の基盤となる土地、水面、水底、空間、あるいは住宅用地の造成などに関する計画、設計、施工、運用、改修、維持管理に必要な技術を総称して土木技術という。国土計画、地域計画、都市計画も、これらの施設計画が主体となる部分は土木技術の対象である。[五十嵐日出夫]

土木技術発達史


古代
土木技術は人間の生活には不可欠のものである。したがって土木技術の歴史は人間の歴史とともに始まった。そして他の諸技術は土木技術から分化発達したものである。これが、土木技術は「すべての技術の母」であり、「技術のなかの技術」といわれる理由である。人間が荒々しい自然のなかで大地にしっかりと根を下ろして生活するには、なにをおいても住居の基礎を築き、交通路の開設、飲料水の確保をしなくてはならない。やがて農業が始まり、集落が形成され、大規模な灌漑(かんがい)や排水工事が始まる。
 西アジアのティグリス川、ユーフラテス川流域に興ったバビロニアやアッシリアではダムや堤防、運河などの大規模な水工施設がつくられていた。直角の割り出し方も知っていたし、土地の面積を測ったり、石材の容積を算出したり、運河の土工量も計算できた。世界最初の本格的な道路建設はアッシリア皇帝によってなされたといわれる。技術的にも重要な橋梁が紀元前6世紀ころユーフラテス川に架けられたと伝えられる。
 古代エジプトでは多くの神殿やピラミッドが建造された。そのためには簡単な機械の原理が応用され、道具が用いられていた。アモン・ラー神を祀(まつ)るカルナックの大神殿やギゼーの大ピラミッドは、このようにしてつくられた。大ピラミッドの高さは約147メートルあり、230万個の石のブロックから成り立っている。一つのブロックの重量はおよそ1.4トンもある。またエジプト人はオベリスクを大きな切り石で築き上げた。その石の一つが900トン以上に及ぶものもあった。石切りの道具は硬い青銅でつくられた鑿(のみ)であった。大石を運ぶために、採石場からナイル川までの運搬路もつくられた。このようにエジプト人は壮大な建造物を築き上げたが、それには斜路、てこ、ころ、そりなどの簡単な設備や道具が用いられていた。しかし彼らは築造法に興味を示すのみで、なぜそのようにすればよいのかという理論には、さほどの興味を示さなかった。
 これに対してギリシア人は、もっぱらなぜそのようにすればよいのかという理論に興味を示し、線、角、面などに関する幾何学的な知識を発展させた。しかし、直面した現実の問題に関してはあまり興味を示さず、土木技術にギリシア科学の成果は十分に取り入れられなかった。もちろん皆無ではなく、たとえば、重い石をつり上げるのに滑車が用いられ、建築設計には幾何学の知識が応用された。しかしギリシアの建築家は構築者というよりもむしろ設計者で、実際の構築には工芸職人、石工、彫刻師らがあたった。[五十嵐日出夫]
古代ローマ
トラヤヌス帝からマルクス・アウレリウス帝の2世紀ころはローマ帝国の最盛期で、広大な征服地を支配するために延々たる道路、ローマン・ロードが建設された。土木工事にはもっぱら、これらの征服地からの豊富な捕虜が使役され、技能や着想も彼らによった。したがってローマ人によるローマの技術は創造性に乏しい。ただアーチ工法では、アーチの頂点に要石(かなめいし)を用いることが発明された。これは、ローマの技術者が石材の抗圧力の強さを知っていたためと思われる。
 ローマ初期の代表的な技術者クラウディウス・カエクスは、ローマへの給水施設であるアッピア水道や、ローマからカプアを経てブルンディシウムに至る582キロメートルの石舗装道路、アッピア街道をつくった。また、アウグストゥス帝によって建築長官に任ぜられたウィトルウィウスは『建築十書』を著した。これは現存する世界最古の建築理論書で、一般建築理論、土木・建築諸機械、力学、材料、構造、様式、技術者の心得など、広範にわたって著述されたもので、内容は今日でもまだ輝きを失っていない。水道局長フロンティヌスは、ローマ市街より95キロメートルも離れた場所から、1日につき400万トンもの用水を供給できる水道をつくった。彼は土地測量技術書の著者としても名高い。このようにローマ人は水道技術と道路技術に優れ、とりわけ道路のそれは近代に至るまでの最高技術であった。アッピア街道のほかにフラミニア街道、アウレリア街道、アエミリア街道が著名である。ほかに石造のアーチ橋、トンネル、港湾、ドック、灯台の建造技術にも優れたものがあった。[五十嵐日出夫]
中世・ルネサンス期
中世・ルネサンス期のヨーロッパの土木技術は橋梁、カテドラル(伽藍(がらん))、城郭建築に示されている。ローヌ川のアビニョンのサン・ベネゼ橋は1178~1188年に、テムズ川の旧ロンドン橋は1209年に架けられた。飛控(とびひか)え壁(フライング・バットレスflying buttress)で有名なパリのノートル・ダムは1163年に起工、1250年ころに完成。シャルトルのカテドラルは1194年に起工、1260年に献堂式が行われた。これらの壮大なカテドラルは、かつて建てられた石造建築物のうちで、もっとも軽く大胆なものといわれている。カテドラルの「軽快」に対して、城郭は「重厚」である。たとえば、1230年完成のフランス北部ソアソン郊外のクーシー城は城郭建築の典型といわれている。
 14世紀から始まったルネサンス期には公共事業が少なく、土木技師はさほどに振るわなかった。おもな建築家は軍人であり、貴族のために奉仕した。画家、彫刻家、建築家、土木技師として有名なレオナルド・ダ・ビンチも1483~1499年にミラノ公ルドビコ・スフォルツァに軍事技師として仕えた。彼は都市計画、橋梁、運河の設計で絶大な業績を残したが、とくに運河の閘門(こうもん)(ロックlock)設計は近代的運河技術の始まりとたたえられている。[五十嵐日出夫]
土木工学の誕生
17~18世紀には中央集権的国家が強大になった。このため橋梁、運河、道路、水道などの公共事業が多くなり、軍事技術者はこれらの民事技術にも従事した。とくにフランスやイギリスではこれが顕著である。こうして土木技術は体系づけられ、近代科学に基づく土木工学が誕生した。1675年、ボーバンの提案により軍事大臣ルーボアMarquis de Franois Michel Le Tellier Louvois(1641―1691)が創設した工兵隊は、近世フランスにおける最初の技術者集団である。ボーバン自身もダンケルクの要塞(ようさい)をはじめ数多くの優れた要塞を建設し、1703年にはフランス陸軍元帥にまで上った軍人で、卓抜な土木技術者でもあった。彼は軍事基地のほかに、平時の舟運にも利用できる内陸運河や水道をも手がけた。とりわけ図面と計算書、工事見積り、詳細計画と指示などからなる計画図書を整備し、以後の技術計画書に範例を与えたのは特筆される。さらに1716年には土木技術専門の工兵隊が組織された。これによりフランス工兵将校は、数学や力学を中心として体系だてられた技術者教育を受けられるようになった。1747年にはトリュデーヌDaniel-Charles Trudaine(1703―1769)によってパリに土木工科大学(エコール・ド・ポン・エ・ショッセcole des Ponts et Chausses)が創設された。ペロネJean Rodolphe Perronet(1708―1794)が初代校長になり、1760年に改組拡充された。この土木工科大学は当時の技術者に対する唯一の高等教育機関で、工兵士官や官吏の養成にあたった。このように初期のフランスでは工兵隊として技術者が組織され教育されたが、その工兵隊は軍事技術のみでなく、民事的な公共事業にも従事したため、いわゆるジェニ・シビルgnie civil(民事工学)、すなわち土木工学の発祥に契機を与えた。フランス革命以後は政府の推進で1794年、パリに理工科大学校(エコール・ポリテクニクEcole Polytechnique)が設立された。数学者で海軍大臣でもあったモンジュと、同じく数学者で将軍でもあったラザール・カルノーらの強力な後援による。この理工科大学は今日に至るまでフランスにおける技術者の高等教育機関として世界に君臨している。
 フランス技術の草創期に現れた技術者で、まずあげねばならないのはゴーチェHubert Gautier(1660―1737)であろう。彼は最初の近代的橋梁の技術書『橋梁概論』Trait des Ponts、『道路建設論』Trait de la Construction des Cheminsを著した。さらにベリドールBernard Forest de Blidor(1697―1761)は『技術者の科学』Science des Ingnieursを出版した。この書物は技術者のハンドブックともいうべきもので、1729~1830年の約1世紀の間、次々と版を重ねた。彼は技術将校としても何度か遠征に参加し、技術師団総監にもなった。また『水工学』Architecture Hydraulique4巻(1737~1739)は、水力学、熱学などの物理学の基礎をはじめ、機械学についても詳述され、水工構造設計の基礎概念を確立した書物として高く評価されている。フランス最古のモンペリエ水道を設計したピトーHenri Pitot(1695―1771)は水力学のパイオニアであり、流速を測るピトー管の発明者としても名高い。また水理学のシェジーAntoine de Chzy(1718―1798)も同時代の技術者である。今日でも管路や河川を流れる水流の平均流速の計算には、彼の提案した形式の平均流速公式が用いられる。土圧論や電磁気学の泰斗として有名なクーロンもこの時代である。彼は技術将校として西インド諸島マルティニーク島で要塞建設にあたったが、その間、建築部材の静力学的挙動について研究した。論文「建築物の静力学問題における最大・最小則の応用に関する研究」(1773)はこの成果をまとめたものである。1784年に学士院会員、河川長官となり、1789年の革命の際、パリ大学総長に就任した。現場において実地の経験を積み、この経験を通じて得られた理論をふたたび実地の建設現場に応用するなど、技術者のあるべき姿として称揚されよう。
 概してフランスの初期の技術者には正規の教育を受けた者が少なく、実地について技術を修得していたが、パリの土木工科大学や理工科大学が卒業生を社会に出すようになると、ここから、粘性流体方程式のナビエ、弾性学や微・積分方程式のポアソン、解析学・複素関数論のコーシーら工学の基礎を築く技術者が輩出した。ナビエは理工科大学卒業後、土木技師となるが、数学上の業績が認められて学士院会員になり、同時に母校の教授となった。さらにポンスレはロシア遠征に技術将校として従軍し捕虜となったが、獄中で射影幾何学を創始したという。このようにフランスで開発された基礎理論は近代科学の金字塔として輝いているが、同国ではかならずしも十分に現場で活用されていたとはいえない。これらの基礎理論を現場に応用し、また現場からの問題提起にこたえて新理論を開発したのはイギリスであった。[五十嵐日出夫]
土木学会の創設
スミートンは1771年、土木技術者協会(スミートン協会)を結成したが、土木技術者の全体を結集しえなかった。1818年パーマーによって、世界の工学会における最初の学会といわれる土木学会The Institution of Civil Engineersが創設された。彼は技術者の役割について次のように述べている。「技術者は哲学者と職人との仲介者である。2人の外国人の間にたつ通訳者のようなものである。したがって両者のことばを理解できなければならない。……それゆえに現場と理論の両方の知識をもつことが絶対に必要である」。ここにいう哲学者とは科学者のことである。科学理論が『哲学雑誌』The Philosophical Magazineなどに掲載されていたことによる。
 イギリス土木学会は創立後10年ほど官許の法人組織ではなかったが、1828年に法人格を得て、道路工学・橋梁学・運河工学・港湾工学で有名なテルフォードが初代会長に就任した。シビル・エンジニアリングcivil engineering(土木工学)ということばは1750年ころから用いられ始めた。これにより土木技術は、長い間の権力者の技術、軍事の技術、ミリタリー・エンジニアリングmilitary engineeringの枠から独立し、市民生活の基盤を形成する平時の技術として出発した。テルフォードは、学会は政府や権力者に頼らず、個々の会員の自発的努力によって発展させるべきものであり、自由であることを強く主張した。1828年1月、かねてから彼がトレドゴールドに依頼していた土木技術の定義、すなわち「土木技術とは、人間の利用と便益のために、自然力の偉大なる源泉を管理する技術であり……自然科学の重要な原理の実際的な応用である」が完成した。この文章の一部分は今日のイギリス土木学会規約にも残されている。
 アメリカの土木技術は1852年設立のアメリカ土木学会に始まる。当時は西部の開拓が開始された時代で、新開地に莫大(ばくだい)な水力開発、鉄道・運河建設がなされていた。またほうぼうに豊富な有用鉱物の鉱脈が発見され、鉱山の採掘も隆盛を極めていた。このため初期のアメリカでは、種々の技術のうち土木技術への需要がもっとも大きかった。1825年完成のエリー運河の成功はアメリカ東部における運河建設を刺激し、いわゆる運河時代を招いた。しかしまもなく鉄道技術が注目され、1830年ボルティモア―オハイオ鉄道が完成した。かくして19世紀の土木技術者は、もっぱら鉄道建設に従事したが、それも長続きはしなかった。都市への給水、下水処理、道路改良、街路整備などに、より大ぜいの土木技術者が必要とされるようになる。都市土木時代の到来であり、土木技術のコンサルタント会社は、先進地域では、もっぱら都市施設を設計し始めた。[五十嵐日出夫]
近代的運河の建設
このようにヨーロッパ、アメリカの土木技術史を通覧すると、近代土木技術の息吹は、フランスよりもイギリスの産業革命のなかに感じられる。この時代の土木技術の特徴は、第一に交通・輸送技術の革新であり、第二には新土木材料の出現である。すなわち、鉄とセメントが大量に製造されるようになった。
 大量の貨物を安全にしかも安く運べる運河はイギリス産業革命の呼び水となった。1762年、石炭輸送のためにマンチェスターよりイングランド中部マージー川河口に至る長さ約46キロメートルのブリッジウォーター運河が開通した。企画者であり経営者でもあったブリッジウォーター公爵3rd Duke of Francis Egerton Bridgewater(1736―1803)はこの成功により「近代運河の父」とよばれた。イギリスは18世紀後半の運河全盛時代を迎え、全土に約3400キロメートルにも及ぶ運河網が張り巡らされた。ヨーロッパ大陸でも17世紀ごろから近代的な運河網がフランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、ロシアなどで建設された。また外洋船が直接に工場地帯に入り、あるいは海洋航路の迂回(うかい)を避けるために陸地を開削して二つの海洋を結ぶ運河が建設されるようになった。イギリスのマンチェスター・シップ運河が1887~1894年に、北海とバルト海を結ぶドイツのノルト・オストゼー運河(キール運河)が1887~1895年に、エジプトのスエズ運河が1859~1869年に、中央アメリカのパナマ運河が1904~1914年に建設され、今日も利用されている。フランスの外交官レセップスはスエズ運河開削の功績によって「偉大なフランス人」と尊称されている。[五十嵐日出夫]
鉄道の登場
しかし、この輝かしい運河時代も鉄道の出現によって光を失う。鉄道の起源には通路と動力の両面がある。通路では、ドイツ中央部のハルツ鉱山で初めて採用された木道に発し、18世紀末には鉄の軌条が用いられた。しかし、現代鉄道の特徴は動力車にあり、イギリス人ジョージ・スティーブンソンにより蒸気機関車が発明され、人力、馬力にとってかわったことにある。彼は、馬で引く石炭運搬用トロッコにかわり、ワットの蒸気機関の利用を思い付き、1814年、試運転に成功した。1825年、彼の機関車アクティブ号(のちにロコモーション号と改名)がストックトン―ダーリントン間を走った。やがて1830年9月15日のリバプール―マンチェスター鉄道の正式開業となり、公共大量輸送機関としての鉄道が本格的に登場した。繊維工業都市と港湾とを結ぶこの鉄道の経済効果は明瞭(めいりょう)で、技術開発効果もまた絶大であった。ジョージの息子のロバート・スティーブンソンの協力による機関車製作、路床建設、長いトンネル、63本の橋梁、泥炭地の軟弱地盤工法など、当時の土木技術に画期的な進歩をもたらしたにとどまらず、世界文明史に偉大な1ページを加えた。ロバートはエジンバラ大学卒業後、1824年南アメリカの鉱山を探査したが成功せず、1827年帰国後、ロンドン―バーミンガム間に鉄道を敷設、1847年に土木工学研究所の創立委員となり、1859年には当時世界最長のグレート・ビクトリア橋などを建設したことで有名である。
 アメリカでは新大陸の開拓時代でもあって鉄道建設は熱狂的に広まり、1830年クーパーPeter Cooper(1791―1883)の製造した蒸気機関車(親指トム号)がボルティモア・オハイオ鉄道を走った。以来、1910年には約39万キロメートルにも及ぶ鉄道をもつに至った。大陸横断鉄道の完成はスエズ運河と同じく1869年のことである。このように隆盛を極めた鉄道も、1902年のシベリア鉄道開通のころから徐々に陰りをみせ、やがて自動車、航空機に花形の座を譲る。[五十嵐日出夫]
道路・橋梁技術の発達
自動車の大量生産が軌道に乗り出した20世紀の初頭、アメリカのフォードは大衆車のT型車を売り出し、自動車道路時代の幕が切って落とされた。近代自動車道路の建設技術はアメリカにおいて大々的に開発されたが、ヨーロッパでも1933年にヒトラーがドイツ高速自動車国道(ライヒス・アウトバーンReichs Autobahn)の計画を発表し、欧米における陸上交通の主役は鉄道から道路に移った。今日では、旅客輸送量(人キロ)、貨物輸送量(トンキロ)において、自動車(道路)輸送のほうが鉄道輸送よりも多い。輸送機関の選択は地方の事情によって決まり、いわゆる交通機関のライフ・サイクルにはよらない。
 鉄道と道路の発達に伴いトンネルと橋梁技術も進歩する。スイスのブリークとイタリアのイゼーレ間に通じるシンプロン鉄道トンネルは平均標高700メートル、長さ1万9803メートルで、1906年に完成した。橋梁技術は鉄鋼産業の発達に支援され、木造橋から鋳鉄橋のそれへと変わっていく。イングランド西部のセバーン川に1779年、祖父以来の遺志を継いだ製鉄業者ダービー3世Abraham Darby (1750―1791)と、同じく製鉄業者で機械技術者でもあったジョン・ウィルキンソンは最初の鋳鉄橋コールブルックデール橋を架けた。径間30.5メートルのアーチ橋である。さらに鋳鉄橋は1850年代から錬鉄橋に、さらに1870年代からは鋼鉄橋にとってかわられる。自動車交通の全盛時代を迎え、大規模な吊橋(つりばし)が出現する。サンフランシスコのゴールデン・ゲート橋はその代表的なものである。1937年完成のこの橋は全長2825メートル、径間1280メートル、支塔海面上高さ227メートルで、単式張り綱を使用した吊橋である。3500万ドルの巨費と10万8000トンに上る鋼材を使用したもので、この形式の橋では世界最大である。[五十嵐日出夫]
土木材料の革新
土木材料としての鉄は、まず橋梁に使用され、土木技術に大きな革新をもたらしたが、もう一つの材料はセメントとコンクリートである。スミートンはエディストン灯台建設に際して水硬性の強い石灰を探し求め、パーカーJames Parkerはテムズ河口の粘土を窯の中で焼き、粉に挽(ひ)くと、その粉は水と結合して迅速に硬化することを発見し、1796年に特許を得てローマンセメントRoman cementとよんだ。また1824年にはアスプディンがポルトランドセメントPortland cementの特許を得て、1843年から生産を始めた。鉄筋コンクリート工法は1867年パリの植木屋ジョセフ・モニエの特許に始まるといわれる。コンクリートは構造物の部材ばかりでなく道路舗装にも用いられる。割石を基層とし、その上に水締砕石を重ねて表層としたテルフォード‐マカダム舗装法はすでに開発されていたが、これに石灰モルタルを注入してより堅固にする工法の特許が1827年にイギリスでとられ、1865年、最初のコンクリート舗装道路が現れた。アスファルト道路は、これよりやや遅れて1870年ころのロンドンに出現する。また都市への給・排水のための上・下水道は古代都市でも設備されていたが、近代的設備としては産業革命以後のイギリスにおけるものである。すなわち、1800年ころ木管にかわって鋳鉄管が配水管として使われ、水圧に十分耐えうるようになった。また1873年からロンドンでは時間給水を昼夜連続給水に改めた。浄水は1829年ロンドンでテムズ川の水を砂で濾過(ろか)したのが最初である。1875年以来、濾過法の普及は著しく、ヨーロッパでは、地表水を濾過しないで用いる上水道はほとんどなくなった。暗渠式(あんきょしき)下水道の普及は1831年のロンドンにおけるコレラの流行により促進された。パリの下水道もロンドンと同じくコレラ流行に対応したものである。アメリカでは1857年にニューヨークのブルックリン地区で下水道がつくられている。最初の人工による下水処理は1762年のイギリスで行われた薬品沈殿に始まる。1880年ドイツのカール・エーベルト、ロベルト・コッホらにより腸チフス菌が発見され、衛生学に新紀元が画された。この影響を受けて細菌学が河川浄化と下水処理とに応用されるようになった。[五十嵐日出夫]
都市計画思想の誕生
土木技術の分野の都市計画、地域計画の技術は政治ときわめて関係が深く、土木政策の技術であるともいわれる。土木工学が実現する過程は、まさに干渉と妥協の連続であるから、土木計画技術者には自然環境の理解に加えて社会環境の理解も必要とされる。都市あるいは地域形成の過程において一定の計画意図が働いている例はすでに古代都市にもみられる。しかし近代的都市計画の思想は産業革命と資本主義の興隆、それに伴う都市の急激な発展を基盤として生まれた。1898年に出版された『明日』Tomorrow(第2版で『明日の田園都市』と改名・1902年)によりエベネザー・ハワードは田園都市論を提唱し、1903年には第一田園都市会社の手によってロンドンの北約56キロメートルに田園都市レッチワースが建設された。[五十嵐日出夫]
日本の発達史
日本の土木技術は治水の土木技術であり、米作りとともにあったといっても過言ではない。すなわち、日本の国土はアジア・モンスーン地帯の東部に位置し、夏には台風の襲来、冬にはシベリア高気圧に支配される南北に細長い狭小な列島である。背骨となる山脈は険しく平地は乏しくても、雨量と太陽に恵まれているから生産力が高く、イネの生育に適しており、日本における土木技術は水田を造成する技術から出発した。弥生(やよい)時代には環濠(かんごう)であり、古墳時代には貯水池であり、律令(りつりょう)時代には条里を流れる給排水の溝であった。戦国時代になると治水事業がおこされる。さらに江戸時代にはこれに加えて農業水利事業や新田開発も活発になった。もとより土木技術は生産基盤の整備にのみ奉仕するものではない。古墳時代には仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)にみられるような宗教的象徴としての土木建造物が築造され、律令時代には大陸から仏教文化とともに渡来した土木技術が用いられ、平城京(710)、長岡京(784)、平安京(794)が造営された。戦国時代には武士家臣団の居城を中心とした城下町が建設され、豪壮な城郭が築造された。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による大坂城(1585)はその代表的なものである。江戸時代に入り一国一城令(1615)が出されると、これを契機として計画的城下町が成立することになった。城郭は政治・経済発展の見地から平野中心が選ばれて立地したが、小高い丘の上や川に面するなど、軍事的な配慮も忘れられていない。またこのころには年貢米や物資の輸送のために利根川(とねがわ)、信濃川(しなのがわ)、淀川(よどがわ)、最上川(もがみがわ)、筑後川(ちくごがわ)、それに琵琶湖(びわこ)などが改修され、各所に港湾が修築された。この時代に提案された国土経営のあり方や地域計画の方向には、優れた経綸(けいりん)が展開されており、それぞれの土木事業に一つの指針を与えていたことは見逃せない。[五十嵐日出夫]
近代土木技術の導入
明治初期は、ヨーロッパやアメリカからの近代土木技術の導入である。国内にはお雇い外国人を迎え、国外にはフランスやアメリカなどに留学生を派遣して、もっぱら欧米の近代土木技術の摂取に努めた。イギリスの鉄道技師モレルは日本最初の新橋―横浜間の鉄道建設(1872年開通)に心血を注ぎ、オランダの水工技師ファン・ドールン、その部下のド・レイケJohannis De Rijke(1842―1913)は利根川をはじめ主要大河川の改修計画を立案し、港湾、砂防、下水道など、あらゆる利水・治水事業を指導した。教育関係にも功績者が多く、工部大学校教頭を務めたヘンリー・ダイアーHenry Dyer(1848―1918、イギリス、1873~1882年滞日)、札幌農学校で土木工学を担当し、のち教頭になったホイーラーWilliam Wheeler(生没年不詳、アメリカ、1876~1879年滞日)、東京大学創立当時の土木科担当教授チャップリンWinfield Chaplin(1847―1918、アメリカ、1877~1882年滞日)らがあげられる。やがて明治20年代も中ごろになると、お雇い外国人の時代が終わる。すなわち、国内で教育を受け、あるいは外国留学から帰国した日本人の土木技術者が活躍するようになった。明治の鉄道建設の総指揮者であった井上勝(いのうえまさる)は早くから技術の自立を唱えていたが、京都山科(やましな)―大津間に逢坂山(おうさかやま)トンネル、長さ665メートルを日本人技術者のみの設計、監督によって完成した。1880年(明治13)6月のことである。この工事で注目されるのは、指導者たちがヨーロッパの新技術と日本伝来の技術とを巧みに融合させて施工した点である。以来、鉄道技術は明治の土木技術の花形となった。お雇い外国人の帰国の後を受け継いで活躍したのは留学帰りの技術者である。アメリカ留学の松本荘一郎(まつもとそういちろう)(1848―1903)(1870年渡米)、フランス留学の古市公威(ふるいちきみたけ)(1875年渡仏)、沖野忠雄(1854―1921)(1875年渡仏)、それに東京大学理学部土木工学専攻を卒業(1878)した石黒五十二(いしぐろいそじ)(1855―1922)、仙石貢(せんごくみつぐ)(1857―1931)、三田善太郎(1855―1929)、札幌農学校を卒業(1881)した広井勇(ひろいいさみ)、工部大学校を卒業(1883)した田辺朔郎(たなべさくろう)(1861―1944)などである。古市は日本最初の工学博士(1888)で、工科大学教授兼学長、内務省技監となり、日本の近代土木技術の最高権威者とされた。沖野忠雄は「淀川高水防御工事計画意見書」などにより日本の治水計画技術に画期的な進歩をもたらした。古市と沖野はともに土木学会の創設者でもあり、それぞれ初代会長、2代会長を務めた。この土木学会創設(1914)をもって日本の近代土木技術がいちおうヨーロッパ、アメリカの土木技術を消化し、自立を宣言したとされている。[五十嵐日出夫]
総合開発の思想の誕生
明治期の土木技術の代表には、しばしば田辺朔郎による琵琶湖疎水工事があげられる。この工事の特徴は、日本では最初であり、世界でも2番目、しかも世界最大の水力発電を行ったことと、今日の国土経営では普通となった総合開発の思想が現れたことである。すなわち、一つの事業に交通(運河、インクライン)、発電(京都蹴上発電所(けあげはつでんしょ))、灌漑(山科、京都平野)などの多目的があげられ、それらを計画的に行った点である。もう1人の巨星、広井勇は札幌農学校教授を経て北海道庁に勤務、小樽(おたる)築港などの優れた工事を行った。その後、東京帝国大学教授になり(1899)、明治土木界の重鎮として日本の土木工学の確立に絶大な貢献をしている。
 大正時代になると鉄道の主要幹線はほぼ敷設し終わり、鉄道技術は幹線の高度化と支線の延長にとりかかる。東海道本線熱海(あたみ)―函南(かんなみ)間の長さ7804メートルの丹那(たんな)トンネルは1918年(大正7)に着工され、16年の歳月を費やして1934年(昭和9)に完成された。治水工事では信濃川の大河津(おおこうづ)分水工事があげられる。信濃川を大河津で分流させ、越後平野(えちごへいや)を水害から救おうとしたものである。1909年(明治42)に着工され、1922年(大正11)に完成された。新潟土木出張所長、青山士(あおやまあきら)(1878―1963)は記念碑を建立し、日本語とエスペラント語で、「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ、人類ノ為(た)メ 国ノ為メ」と記している。1923年9月1日、関東大震災が起こった。このため隅田川(すみだがわ)の橋梁は、新大橋を除くすべてが焼け落ちたが、震災復興事業として新たに架けられた相生橋(あいおいばし)、永代橋(えいたいばし)、清洲橋(きよすばし)、蔵前橋(くらまえばし)、駒形橋(こまがたばし)、言問橋(ことといばし)などは世界に誇る名橋として名高い。日本の耐震工学の基礎も、この震災復興事業のなかに据えられた。[五十嵐日出夫]
土木施工の機械化
第二次世界大戦後の土木技術は1956年(昭和31)に完成した天竜川の佐久間(さくま)ダムから始まったといっても過言ではない。大型土木機械の集中的投入は土木工事現場を一変させ、日本の土木工事は本格的な機械化施工の時代に入った。以降、大ダムが矢つぎばやに完成した。ロックフィルの御母衣(みぼろ)ダム(1961)、アーチダムの金字塔といわれる黒部ダム(1963)など、世界に冠たるダムが続出する。また、1964年には東海道新幹線東京―新大阪間が、翌1965年には名神高速道路が開通し、高速鉄道・高速道路時代を迎えた。1969年、東名高速道路が開通、茨城県鹿島港(かしまこう)が開港した。また千葉県成田には新東京国際空港(現、成田国際空港)が着工(1969)、筑波山(つくばさん)南麓(なんろく)の台地には筑波研究学園都市が着工(1968)された。都市内自動車専用道路も東京都内、阪神地区内につくられ、地下鉄、下水道などの都市土木も進展した。大阪府吹田(すいた)・豊中(とよなか)2市にまたがる千里山丘陵には日本最初の住宅都市、千里ニュータウンが展開している。1962年に入居を開始したが、土木技術と建築技術の協力事業としても意義が深い。とりわけ都市環境の開発では、土木構造物や施設を単にその一次的機能を目的として計画し設計するのみでは十分でない。1960年代末ころから土木技術をみる社会の目は厳しくなった。一次的機能のほかに副次的機能である美観とか歴史的象徴性などが要求されるようになった。土木技術がわれわれの環境創造の技術である以上、これは当然のことであろう。[五十嵐日出夫]

現代土木技術の方向


土木技術と諸科学との関係
土木技術は総合の技術である。分析の技術ではない。対象を要素や成分に分けてその構造を明らかにすることはあっても、それは総合を目ざしている、われわれの目的にあった環境を創造するための一つの過程にしかすぎない。また環境といっても自然環境ばかりでなく社会環境にも配慮しなければならないから、濃淡の差はあるにしても、現代の土木技術は自然科学と社会科学、そして人文科学に至る広範な科学体系に深くかかわり合っている。
 構造物の強弱や挙動を知るための力学と物理学、材料の性状を知るための化学をはじめ地学、生物学などの自然科学系列の諸科学、土木施設が影響を与え、また影響を与えられる社会の仕組みや活動の原理を知るための社会学、経済学、そして表面に現れた社会活動の規範原則を知るための法律学など、社会科学系列の諸科学にも関係する。さらに対象が社会の内面的な行動規範、原理にも及ぶ倫理学、心理学など、さらに社会の過去の営みを振り返り、将来の発展を考えるための歴史学、地域との関係を調べる地理学などの人文科学系列の諸科学、またこれらの諸科学に体系を与える哲学、有力な分析手段を提供する論理学、数学、情報科学など、これらいっさいの学問は直接的あるいは間接的に土木技術と関係をもつ。そのうえ、技術はアート(芸術)ともいわれるように、土木技術にも芸術としてみられる側面がある。したがって土木技術は、これらの諸科学および芸術に基盤をもつことになる。[五十嵐日出夫]
土木技術の分化・多様化・総合化
土木技術の総合化と多様化の傾向は、経済の高度成長から安定成長へ、経済の時代から文化の時代へと移行するにつれて、ますます強くなった。部分の最適化よりも全体の最適化が求められ、少量ではあっても多様な需要が発生する。一つの橋は、その橋自体の技術として評価されるのではなく、道路網のなかに位置づけられて評価される。橋だけがいかにすばらしくても、道路網としてよくなければ、大きな評価は得られない。また道路をつくっても、交通の側面からだけではなく、景観などの側面からも評価される。
 さらにこれからの土木技術は、国際化と地域主義に対応できるものでなければならない。青函(せいかん)トンネルの技術は、本州と北海道を陸続きにする技術というだけではなく、英仏海峡トンネルや沿海州沖の海底資源探査技術にも通じる。エネルギー問題やドル・ショックにもただちに影響される。また土木構造物や施設は、およそ土地に固定されて容易に動かしがたいものであり、その土地の自然および社会環境に順応できるものでなければ役にたたない。ゆえにその土地、土地にふさわしい技術が要求される。地方の時代が叫ばれ、中央集権制が後退すれば、全国一律の土木技術では対応できなくなる。また土木技術の画期的な革新は、製鉄技術の発達によって木橋が鉄橋にかわったように、他の関連技術の発達に負うところが大きい。近代土木技術から現代土木技術にかわったのは、大量の大型建設機械の登場による。この意味で土木技術の革新は関連技術の成果を巧みに利用することにあるといっても過言ではない。いわばユーズウェアusewareの開発が、土木技術における主要な技術革新になる。このようにこれからの土木技術は、ますます分化し、多様化し、それらが総合され、革新されていくのである。[五十嵐日出夫]

高齢社会への対応

日本社会の成熟化に伴い、社会基盤の整備はおおむね完成を迎えた。今後は、高度成長期に大量に整備した社会基盤の維持・管理がキーワードとなる。
 また、近年におけるまちづくりのコンセプトとして、「コンパクトシティ」があげられる。これは、従来の社会基盤を有効に活用し、中心市街地の賑わいを盛り上げていく凝集型の都市を目ざす考え方である。このように、人々が集住し、便利で快適な生活を送るという都市本来の利点を活かす時代になりつつある。これは、将来における超高齢社会への対応と合致する。すなわち、既存の社会基盤、とくに公共交通システムの結節点を中心として、圧縮されたまとまりのよい市街地を形成し、高齢者の安心・安全を確保しながら、快適に生活できる空間への再構築が求められている。[鈴木聡士]

災害への対応

2011年(平成23)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、M(マグニチュード)9.0というこれまで日本の歴史のなかでも最大級のエネルギーをもつ地震であったが、それに伴って発生した津波が被害をさらに甚大なものとし、日本の災害史上未曽有(みぞう)の被害をもたらした大震災となった。その巨大な津波の高さとエネルギーは、施設の設計外力を大きく上回り、国土基盤、国土資源に甚大な被害が生じた。この大災害を教訓として、「減災(げんさい)」という発想にたった巨大災害への備えが考えられるようになった。
 すなわち、災害に強い国土構造への再構築に向けて、以下のようなアプローチが考えられた。(1)各地域・個々の施設を強くする。ハード・ソフト両面から、各地域や個々の施設をまず単体として強化することを目ざし、災害への対応力の高い強靱な国土基盤の整備、構築を図る。(2)国土・地域全体のシステムで備える。巨大災害が生じた場合にあっても、国土やそれを構成する地域が総体として対応し、互いに支えあえる体制を構築すること等を通じて、安全・安心を確保した災害に強いしなやかなシステムをもつ国土の形成を図る。
 さらに、国土全体での機能分担・配置等のあり方、あるいは災害に強い広域交通基盤の効率的・効果的な整備等による代替性・多重性の確保、災害に備えた情報通信のあり方、災害リスクを考慮した安全で安心できる国土利用、安定的なエネルギー供給が可能な国土の形成、震災に対応したサプライチェーン(供給連鎖)および公共交通の確保のあり方など、東日本大震災から得られた教訓に基づき、災害に強いしなやかな国土の形成が検討された。[鈴木聡士]
『高橋裕編著『土木工学体系1 土木工学概説・土木技術論』(1982・彰国社) ▽土木学会編・刊『日本の土木技術・近代土木発展の流れ』(1975) ▽土木学会編『土木計画学シリーズ 土木計画学の成立と背景』(1978・技報堂出版) ▽国土審議会制作部会防災国土づくり委員会『災害に強い国土づくりへの提言~減災という発想にたった巨大災害への備え~』(2011・国土交通省)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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