広南国(読み)こうなんこく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広南国」の意味・わかりやすい解説

広南国
こうなんこく

16~18世紀に、中部ベトナム広南)のフエユエ)に都した阮(グエン)氏の王朝。1558年、北部黎(れい)朝(レ朝)の権臣阮潢(グエン・ホアン)は、鄭(チン)氏との政争に敗れて王都ハノイから追われ、当時辺境の地であったフエに軍を駐して実質的に独立した。しかし阮氏は、おりからの南海交易の発展に伴い、日本、ポルトガル、オランダと通交して栄えた。中国、日本人はこの国を広南国とよんだ。17世紀には北部鄭氏南下を破るとともに、カンボジアからメコン・デルタを奪うなど発展したが、1777年タイソン(西山)阮氏の反乱によって滅亡した。しかし王族阮福映(グエン・フク・アイン)は1802年タイソン阮氏を滅ぼし、統一ベトナムを再興した。

[桜井由躬雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広南国」の意味・わかりやすい解説

広南国
こうなんこく
Guang-nan-guo; Kuangnan-kuo

ベトナム,17~18世紀の黎朝後期,ベトナム南半部に君臨してい阮氏の支配領域に対し,中国人が用いた呼称。ヨーロッパ人はこれをコーチシナ王国と呼んだ。一方,当時北半部に君臨していた鄭氏の支配領域を,中国人は安南国と呼び,ヨーロッパ人はトンキン王国と呼んだ。中国人が貿易のために多く渡来したトゥラン (沱らん) やフェイフォ (会安) がクァンナム (広南) 城の近くであったために,阮氏の支配地全体がその名で知られるようになったと考えられる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「広南国」の解説

広南国
カンナムこく
Quang nam

17〜18世紀にベトナム中部を支配した阮 (げん) 氏の前期王朝
広南はチャンパーの故地。都はユエ。阮氏は鄭 (てい) 氏と並ぶ黎 (れい) 朝の重臣で,16世紀中ごろ鄭氏との争いから広南方面に移って独立化の傾向を強め,広南王としてハノイの鄭氏と帝国を2分し,対立抗争するに至った。一方では南方に領土を拡大し,メコン−デルタに達した。だが1773年西山党の乱が起こると,77年ついに滅ぼされ,代わって西山朝がたった。

広南国
こうなんこく

カンナムこく

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「広南国」の解説

広南国(こうなんこく)

阮(グエン)朝

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