中国の政治家。江西省の大地主の家に生まれる。北京(ペキン)大学の在学中に李大釗(りたいしょう)らとマルクス研究会を組織、1919年の五・四運動の学生指導者の1人、1921年の中国共産党の創立者の1人でもある。1927年共産党中央委員、南昌(なんしょう)暴動に参加、南征の途中に敗れて上海(シャンハイ)からモスクワに逃れ、1931年帰国後は中華ソビエト共和国臨時政府副主席などを歴任、長征軍に合流した。のち、毛沢東(もうたくとう)らの陝北(せんほく)へ北上する方針に反対して四川(しせん)省・西康省に根拠地を置く説を主張、1年間そこにとどまり、のちに陝北に合流したが、毛沢東らと意見があわず、1938年党籍を剥奪(はくだつ)され、香港(ホンコン)に亡命し、1968年カナダに移住、客死した。
[加藤祐三]
中国共産党創立者の一人。江西省吉水県の地主郷紳の家に生まれ,北京大学在学中五・四運動のリーダーとして活躍し,李大釗(りたいしよう),陳独秀との接触を通じてマルクス主義に共鳴し,1920年9月,李大釗らと北京に共産主義グループを結成,中共党創立大会に北京代表として参加した。22年1月モスクワで開かれた極東諸民族(または勤労者)大会に出席してレーニンと会った。帰国後党中央委員,同時に国民党中央委員候補として国民革命に活躍,国共分裂後八・一南昌蜂起に参加し,敗北後入ソ。1931年帰国後,鄂予皖(がくよかん)ソビエト区の軍政両面の最高指導者となり,翌年徐向前らの第4方面軍を率いて四川北部に入り,35年6月懋功(ぼうこう)で毛沢東らの第1方面軍と会した。ここで党中央の北上論に反対し,四川北西,川康に根拠地を作ることを主張,前者の北上後,別に臨時中央を組織した。36年前者に合流,延安で要職につくが,統一戦線政策などをめぐって党中央と対立,38年延安離脱,国民党に協力した。晩年香港で回想録《我的回憶》(1974)を刊行。カナダでカトリックとして病死した。
執筆者:小島 晋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 30年末に始まった国民党軍による大規模な包囲攻撃を巧みに打ち破り,革命根拠地の拡大に貢献したが,34年,党中央・中央紅軍とともに〈長征〉を余儀なくされた。長征途上張国燾(ちようこくとう)が北上を拒んで西康にとどまった際,朱徳は張国燾およびその率いる第4方面軍と行動をともにしつつ張国燾と闘争,36年第4方面軍を指揮して北上し,陝西省で中央に合流させた。37年,国共合作で紅軍より改組された八路軍の総司令となり,山西省の前線で日本軍に抗戦,39年延安へ戻った。…
※「張国燾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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