江西省(読み)コウセイショウ(その他表記)Jiāng xī shěng

デジタル大辞泉 「江西省」の意味・読み・例文・類語

こうせい‐しょう〔カウセイシヤウ〕【江西省】

江西

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精選版 日本国語大辞典 「江西省」の意味・読み・例文・類語

こうせい‐しょうカウセイシャウ【江西省】

  1. 中国の中南部にある省。揚子江中流の南側に位置し、鄱陽湖の集水区域で四周は丘陵性の山に囲まれる。省都南昌。

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改訂新版 世界大百科事典 「江西省」の意味・わかりやすい解説

江西[省] (こうせい)
Jiāng xī shěng

中国,華中南部に位置する省。簡称は贛(かん)。面積約16.7万km2。人口4040万(2000)。長江(揚子江)中流の南を占める。

省の地勢は北に低く南に高く,また東西にも障壁があって,北に注口をもつ長円形の盆器のようである。省域は北部中央に位置する鄱陽湖(はようこ)の集水域とほぼ一致し,東は武夷山脈によって福建と,西は羅霄(らしよう)山地によって湖南と接し,南は低平な丘陵がいりくんで広東との境界をなす。北も中央に鄱陽湖と長江をつなぐ低隘地をはさんで,西半は幕阜山によって湖北と,東半も懐玉山をはじめとする丘陵で安徽・浙江と画される。南西より北東に走る丘陵山地の走向に沿う境界は単調であるが,そうでないものは丘陵群の分水嶺をつなぐ複雑な屈曲をもつ。ただ後者にあっては屈曲の間隙にある低地を通じて,隣接地域との交通が容易となっている。

 北部は中国最大の淡水湖である鄱陽湖(3583km2)を中心に,贛江,撫河,信江等の長江支流が,広い沖積平野をつくり,南部は高度1000m未満の開析の進んだ丘陵が走り,その間に盆地が開ける。特に贛州を中心とする盆地は大きい。その中間,贛江の中流域は,西の武功山より伸びる丘陵によって下流域と画され,一つのまとまった地域(吉泰盆地)を形成する。

 江西は長江と嶺南山地の間にあり,基本的に亜熱帯性気候に属する。しかし冬季は,北に向かって開口する地勢のために,特に北部の平原は大陸性高気圧の影響を受けて気温が下がり,ときには鄱陽湖が凍結することもある。反対に夏季は亜熱帯性高気圧の影響で高温となる。また東を武夷山脈で画されているが,海洋と近いため季節風の影響を受けやすく,冬の冷気と夏の暖気が交代する5~6月期には,降水量が急増し,1年のほぼ半分の降水量がこの時期に集中する。年平均気温は16~20℃,南部の盆地ほど高い。年降水量は1400~1900mm,東部の山地ほど多い。このような温暖多雨の気候の下で,岩石の風化溶解は早く進行し,ラテライト性の赤色土壌,黄色土壌が発達する。これは長江以南に広く分布するもので,特に江西省では贛江の新しいデルタの部分を除いて,ほぼ全省に分布する。したがって平野部で水資源が豊富であっても,土地の生産力は低い。

華北の黄河中下流域に,原始社会・文化が発達していたころ,江西を含む長江中下流以南は,三苗や百越と呼ばれた漢民族とは異なる民族の居住地であった。考古学的研究によれば,この地域には華南の広東などとも共通の文化的基盤のあったことが認められるが,同時に殷・周文化に対応する青銅器をも含む高度の文化も発見され(清江県呉城遺跡),隣接する湖南北部と一帯になって一つの文化圏を形成していた。春秋時代には楚の一部を占めていたようであるが,北部中原を中心とする歴史にはほとんど登場しない。わずかに上記の百越を呉が征伐しようとしたことや,現九江市付近で長江が扇形に分流して彭蠡沢(ほうれいたく)と称せられる湖沼を形成していたことなどが伝えられるのみである。しかし,早くから始まったとみられる水稲栽培を基礎に,居住区域が拡大し,北方からの影響も少しずつ強まっていたようである。

 秦の全国統一では,淮河(わいが)以南の安徽から江西にかけて広い範囲が九江郡とされただけであったが,漢代にはほぼ江西の領域に近く予章郡が置かれた。当時の鄱陽湖は現在に比べてきわめて小さく,現在湖面となっている部分にも陽(きようよう)をはじめとする県が設置され,平野の農業開発がすすめられた。同時に贛江に沿う平野にも県が置かれ,南方へ進む開発の拠点となった。秦・漢時代にこのルートによって南越征伐がおこなわれたといわれるが,一方では交流も進められたに違いない。また平地の農業のみならず,豊富な森林から木材の伐採も進められ,造船材料などに用いられた。

後漢以後は,以上の動きがいっそう活発になり,特に晋が建業(南京)に都を置いてからは,国都を中心とした長江下流域の後背地として位置づけられ,人口の移住もすすめられて開発が進行した。生産された農産物や水産物は,長江によって下流へ運ばれ南朝の都市を支えた。地域の内容の充実にともない政治領域の編成もすすみ,長江中下流域を揚州と総称していたものが,荆州(湖北,湖南)と江州(江西,福建)を分立させる。江州の中心は当初予章(南昌)にあったが,のちには潯陽(じんよう)(九江)に移された。九江は長江より江西へ入る門戸を固める要衝で,長江水運の重鎮でもあり,内域の中心地である南昌,南部奥地の要衝である贛州と並んで,江西の歴史で最も重要な都市であった。このような内部の基本的な地域構造もこのころに成立している。

 隋・唐に至り政治中心が再び北方へ移されると,南方は中央に離反する地方勢力の跳梁する場となる。隋末には長江中下流域を支配し,短期間梁と称した蕭銑(しようせん)や,農民反乱から江西より広東に至る領域を唐初まで占拠した林士弘などが活躍した。行政領域としては,江西は江南道に属したが,やがて東道(江蘇,浙江,福建)と西道(湖南,江西)に分かれる。かつて陸路による接続から江西に結びついていた東南沿岸地方は,むしろ海路により浙江と結びついていったものであろう。このようにしておのおのの地域の独自性が確立されていった。江西も江南西道から出た語にほかならない。

 このころ鄱陽湖は現在の半分くらいまで拡大していたが,特に安史の乱以降,南昌の周辺をはじめとして築堤灌漑などの水利事業がすすめられ,安定した生産をめざして開発が進められた。主要河川の平野のみならず,中小支流域でも治水事業がおこなわれており,開発の手の拡大を知ることができる。また丘陵地にも茶や麻が栽培されはじめ,特に北東部の浙江・安徽との境界地帯の茶は当時から知られている。

 宋代には江西は江南西路と江南東路に分属し,長江下流域に近い北東部は,九江も含めて東路に属した。しかし宋の南渡以後は,南北朝時代以来の大量の人口移入がみられ,江西では未開発の南部から南東部の山間へも開発が進むようになる。生産品の多様化もいっそうすすみ,茶は名品の特産地があらわれ,婺源(ぶげん)や修水のものは全国的に有名であった。またミカンなどの果物の栽培も知られている。農業のみならず工業部門でも,宋の景徳年間(1004-07)に浮梁県景徳鎮に官立の製陶所が設けられ大規模な陶磁器生産がはじめられた。

元になって置かれた江西行省は南宋の江南西道の範囲と広東を含むものであった。唐・宋以降,広州の都市としての繁栄にともない,広州と北方を結ぶルートとして,広州より嶺南を越え贛江を下って長江に至るルートが,きわめて重要な役割を果たすようになり,このルートに沿う地域が一つの行政領域にまとめられたといえる。元末には,北方の紅巾軍の反乱に呼応した活動の拠点となり,特に陳友諒が江州(九江)によって独立国を建てたのはよく知られる。しかしこの戦略的位置の利用を誤った陳友諒は,後続の朱元璋に敗北を喫する。一時的な反乱の拠点としては抜群の優位を持っても,長期の独行は非常に困難であるという江西の政治地理的位置をよく示すものであろう。そして明代には地勢的に不自然な広東の併入を離し,景徳鎮を中心とする北東部の分離をもとに戻し,現在の江西の領域が確定する。

明・清時代,東南海岸の港湾都市が発達するとともに,北方と南方を結んで省域を縦断するルートは,経済的比重を沿海ルートにゆずってゆく。清末西洋諸国の圧力で各港湾は開港してゆくが,その波は長江を通じて内陸へ及び,江西でも1858年(咸豊8)の天津条約で九江が開港し,長江中流部の水運拠点の一つとして商業が発達した。しかしこの門戸より内側の省域はむしろ近代化からとり残され,清末の太平天国の乱をはじめとする動乱の舞台となった。また辛亥革命につづく国民革命軍の北伐のルートとなり,1922年には萍郷(ひようきよう)市安源の炭田で初めての労働争議がおこり,27年毛沢東は井岡山に農民革命の拠点を築き,同年周恩来,朱徳等が〈南昌八・一蜂起〉をおこすなど,中国革命揺籃の地であった。次いで31年には中国共産党の指導で瑞金にソビエト政府がつくられたが,34年紅軍の長征により革命の舞台は北へ移ってゆく。

辛亥革命後1918年には2756万の人口があったが,動乱の連続で49年の解放時には1314万に減少していた。解放後少しずつ回復,2000年には4040万である。地域的にみれば鄱陽湖周辺の平野部に約4割が居住し人口密度も高い。南昌,景徳鎮,萍郷,新余,九江,鷹潭の6省直轄市と,上饒,宜春,撫州,吉安,贛州の5地区に分かれ,その中に14市70県をもつ。省都は南昌,人口184万(2000)。

現在,省の面積の大半は森林や荒地で,耕地は232万ha(1993)にすぎないが,全体に耕地に乏しい長江以南の各省の中では比較的恵まれている。しかし耕地の大部分は山地・丘陵の間に散在するもので,平野部にある耕地は約2割である。耕地の中では水田が圧倒的に多く,全体の84%を占める。作物の中では全体の播種面積の半分が稲で,あとは豆類,イモ類,ナタネなどの作物がうえられている。これは降水量が豊富で,河川湖水による灌漑が容易である地区に耕地が集中し,灌漑が得られない地域の可耕地の開発が遅れているためである。山地・丘陵地では茶,ミカンなどが栽培される。全体としては農業生産性はまだまだ低い。

 鉱物資源は省の南西部湖南との省境の山地から北東に向かう古い地層に沿って,萍郷,豊城,楽平などに石炭を産し,清末に湖広総督張之洞の提唱で開発され,湖北大冶の鉄鉱とあわせて漢陽(現,武漢市)に漢冶萍公司の鉄鋼所が建設された。現在も萍郷市安源山は石炭資源に乏しい華中では比較的大きな炭田である。その他徳興の銅,南西部の山地に産するタングステンなどが有名。工業は全般に遅れており,総生産額からみれば華中・華南でも広西,福建に次いで低い位置を占める。木材,工作機械等の一部産品は全国で主要な生産地となっている以外は特にみるべきものはない。

 沿海地区の開発が進む一方で,内陸地区の中にもいち早く開発への道を歩もうとする地域と,遅れが目立つ地域の較差が生じているが,江西は現在のところまだ十分な条件が整っていないようである。江蘇・浙江の沿海部と,内陸開発の重要な拠点である武漢との間にあって,双方に距離があって一体となった発展は望めず,独力での発展には資源や資本の蓄積が不足している。交通の条件もよくない。しかし1997年の香港返還にあわせて開通した京九鉄道(北京~九竜)は,江西省を縦断しており,新しい南北の動脈として,江西の地域的発展に寄与することが期待されている。

歴史的文物は豊富ではないが,波陽(鄱陽)県の永福寺塔(北宋)などの仏教関係遺跡や,九江市の陶淵明関係遺跡等のほか,景徳鎮市の古窯跡なども貴重な遺産である。しかし最も有名なのは南昌蜂起や井岡山などの革命遺跡である。また周辺の山地は貴重な自然が残っており,最近廬山,井岡山,九連山,武夷山,官山の5区は亜熱帯の自然景観を代表するところから,自然保護区に指定された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江西省」の意味・わかりやすい解説

江西〔省〕
こうせい

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