日本大百科全書(ニッポニカ) 「当道座」の意味・わかりやすい解説
当道座
とうどうざ
中世から近世にかけての盲人仲間をいう。源流は中世の盲人芸能者の座であって、琵琶(びわ)の音に和して『平家物語』を語るいわゆる平曲を得意とした人々(琵琶法師)の集団である。14世紀の初めには琵琶法師の座がみられ、その後平曲は最盛期を迎えた。一方(いちかた)(流祖如一(じょいち))、八坂(やさか)(流祖城玄(じょうげん))の2流が著名であったが、15世紀なかばごろには、一方から妙観(みょうかん)、師道(しどう)、源照、戸島(としま)の4派が分かれ、15世紀末から16世紀の初めごろに、八坂方から妙聞(みょうもん)、大山(おやま)の2派が分かれ、ここに6流派が成立し、江戸時代まで存続した。当道座の階級制度も、検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)の区別だけでなく、各内部もしだいに細分化された。
当道座はいつのころからか久我(こが)家の管領下に置かれた。1534年(天文3)11月の後奈良(ごなら)天皇の綸旨(りんじ)には、「當道盲目法師座中事、後白河(ごしらかわ)院御宇(ぎょう)以來御管領云々、彌(いよいよ)不可有相違之由、天氣所候也」とあって、後白河法皇の時代から管領してきた由緒があるとしているが、はたして史実であろうか(『久我家文書』第1巻)。当時の当道座は2派に分かれて抗争中であって、本所権を主張していた久我家は一方の旗頭であったので、後奈良天皇の綸旨を得るための申し立てであったのかもしれない。1535年11月と46年11月には、室町幕府奉行人(ぶぎょうにん)連署奉書が出され、久我家の本所権が室町幕府から認められた(同上)。
戦国争乱の時代を経て江戸幕府が成立すると、徳川家康は当道座の式目を承認し、当道の古来の格式、検校・勾当への座中官物(官金)や座頭以下への諸道の運上(配当)を認め、式目の改正を命じたと伝えられている(「当道大記録」)。1634年(寛永11)3月には、小池惣(そう)検校らによって当道式目が制定され、さらに1692年(元禄5)9月には惣検校杉山和一(わいち)によって改訂が行われ、当道新式目として幕府に提出された。
当道の官位は検校、別当、勾当、座頭の4官であり、さらにそのなかが16階73刻(きざみ)に分かれていた。その昇進のたびごとに、定められた官金を納めた。初心者がその過程を昇進し、67刻の検校晴になるまでには719両を必要とした。官位の昇進を望む者は、官金を納めさえすれば一時に何刻も昇進できたのである(売官)。また当道座には行政機関として十老(検校就任順10人目まで)がおり、最高位が惣検校であって、職とよばれ、職屋敷が京都に置かれていた。それ以下は二老、三老などと数字を冠してよばれ、当道座はこの十老の合議で運営された。
当道新式目の改訂にあたった杉山検校は、鍼治(しんち)術に優れ、5代将軍徳川綱吉(つなよし)に召し出され、1692年5月惣検校となった。これは元来同一であった惣・職検校が、京都の職検校と江戸の惣検校に分離されたことを意味し、惣検校は江戸に惣録(そうろく)屋敷を与えられ、職検校の上位に位置づけられた。これによって江戸の惣録屋敷が関東筋の盲人を、京都の職屋敷が上方(かみがた)筋の盲人をそれぞれ支配することとなった。式目改訂の理由もこのへんにあったのである。
江戸時代には平曲が衰退し、当道座は芸能を主とする性格が失われ、官金や配当の分配が中心となり、経済的な色彩を濃くした。座頭にとって、勾当や検校に昇進するためには金が必要であり、高利貸を営む者も多く、また配当を強要することもあって、世間から白眼視された。
また、当道座は司法権が認められており、式目違反者に対し不座(追放)などの処分が可能であったが、殺人などの重罪に対しては幕府に裁断権があった。
[大谷貞夫]
『中山太郎著『日本盲人史』『続日本盲人史』(1934、36・昭和書房/復刻版・1965・八木書店)』▽『加藤康昭著『日本盲人社会史研究』(1974・未来社)』▽『渥美かをる他編著『奥村家蔵当道座・平家琵琶資料』(1984・大学堂書店)』▽『久我家文書編纂委員会編『久我家文書』全4巻・別巻1(1982~87・国学院大学)』