後藤芝山(読み)ゴトウシザン

デジタル大辞泉 「後藤芝山」の意味・読み・例文・類語

ごとう‐しざん【後藤芝山】

[1721~1782]江戸中期の儒学者。讃岐さぬきの人。名は世鈞。高松藩主の侍講となり、藩校講道館設立四書五経に施した訓点は、後藤点として知られる。著「元明史略」など。

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精選版 日本国語大辞典 「後藤芝山」の意味・読み・例文・類語

ごとう‐しざん【後藤芝山】

  1. 江戸中期の朱子学者。名は世鈞。字(あざな)は守中。通称、彌兵衛。別号、竹風。讚岐の人。江戸の昌平黌(しょうへいこう)に入り、林榴岡(りゅうこう)師事高松藩に仕え、藩校講道館の総裁に任ぜられる。四書五経に後藤点として知られる訓点を付加。有職故実に詳しく、詩文、書にもすぐれた。門人柴野栗山がいる。著に「元明史略」「王経標註」「芝山先生遺稿」など。享保六~天明二年(一七二一‐八二

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朝日日本歴史人物事典 「後藤芝山」の解説

後藤芝山

没年:天明2.4.3(1782.5.14)
生年:享保6.11.4(1721.12.22)
江戸時代中期の漢学者讃岐(香川県)高松の人。名は世鈞,字は守中,通称は弥兵衛。芝山と号す。家は高松藩に仕えていたが,財政難の人員整理に遭い,享保11(1726)年に帰農,領内芝山の麓に住んだ。初め守屋義門,菊池黄山に師事。その頴敏が藩主の耳に入り,19歳のとき,官費で江戸に遊学,昌平黌に入る。その後,藩儒となり,安永9(1780)年藩校講道館が開設されると,初代総裁となった。その学は朱子学を宗としたが,拘泥することなく,特に経書に加点した出版物は,後藤点の名で広く世に行われた。<参考文献>阿河準三『後藤芝山』

(高橋昌彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後藤芝山」の解説

後藤芝山 ごとう-しざん

1721-1782 江戸時代中期の儒者
享保(きょうほう)6年11月4日生まれ。江戸で林榴岡(りゅうこう)の門にはいり,昌平黌(しょうへいこう)でまなぶ。郷里の讃岐(さぬき)高松藩につかえ,安永9年藩校講道館初代総裁となった。四書,小学,五経の訓点は「後藤点」として知られる。門人に柴野栗山(りつざん)ら。天明2年4月3日死去。62歳。名は世鈞。字(あざな)は守中。通称は弥兵衛。別号に竹風。著作に「宮詞一百首」「職原鈔考証」など。

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367日誕生日大事典 「後藤芝山」の解説

後藤芝山 (ごとうしざん)

生年月日:1721年11月4日
江戸時代中期の漢学者
1782年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の後藤芝山の言及

【讃岐国】より

…さらに67年(慶応3)に小豆島で1838年以来津山藩領となっていた西部六郷で,諸負担の軽減を求める一揆がおこった。 讃岐は平賀源内や柴野栗山を生んだ地であるが,女流文学者の井上通女(つうじよ),丸亀城下で活躍した俳人岸夕静(ゆうせい),柴野栗山の師である後藤芝山(しざん),大塩平八郎の教えを受けた陽明学者林良斎,国学者の友安三冬らも著名である。また滝沢馬琴と親交があり膨大な《聞ままの記》を著した木村黙老(もくろう)がいる。…

※「後藤芝山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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