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徐陵 じょりょうXu Ling

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徐陵
じょりょう
Xu Ling

[生]天監6(507)
[没]至徳1(583)
中国,六朝時代の梁,陳の文学者,政治家。東海,たん (山東省) の人。字,孝穆 (こうぼく) 。諡は章。幼少から非凡の才を示し,12歳で老荘に通じたという。 15歳から晋安王 (梁の簡文帝 ) に仕え,梁では魏や北斉に使いして弁舌と機知で活躍。陳時代にも重用されて御史中丞として王室の内紛を正し,尚書右僕射,侍中を経て太子少傅に進んで没した。簡文帝の幕下の文学集団の中心人物として,父の徐ちや,庾肩吾 (ゆけんご) ,庾信父子とともに,技巧を凝らした艶麗な詩を多くつくり,いわゆる「宮体」の流行を生み,簡文帝の命によって,その宮体詩および漢以来のそれに類する艶詩を集めた『玉台新詠』を編纂した。また駢文 (べんぶん) でも華麗で緊密な構成をもった名手であり,陳の詔勅,軍書,檄 (げき) などは多く彼の手に成った。その詩文の風は,庾信と並んで「徐 庾体」と称される。現存する作品は『徐孝穆集』 (6巻) に収められ,清の呉兆宜の箋注がある。

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世界大百科事典 第2版の解説

じょりょう【徐陵 Xú Líng】

507‐583
中国,南朝梁,陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく,548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが,江南に侯景の乱が勃発し,555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代,その東宮に父の徐摛(じよち),および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は,〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。また《玉台新詠》の編者である。【吉川 忠夫】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徐陵
じょりょう
(507―583)

中国、南朝陳(ちん)の文人。字(あざな)は孝穆(こうぼく)。東海郡(たん)(山東省)の人。父の徐(じょち)は、梁(りょう)の太子蕭綱(しょうこう)(後の簡文帝)の文学サロンにおける有力文人で、「宮体詩」の創始者とされる。徐陵も蕭綱に好遇され、『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』を編集している。北方に使いしている間に梁は滅び、苦難ののち陳に仕え、吏部尚書等の大官を歴任し、77歳で卒した。艶麗(えんれい)な宮体の詩風を陳代に伝え、同時代の(ゆしん)と並称されるが、運命の激変を体験してきた彼の文章には、単なる美文にとどまらない現実把握の力がある。また陳王朝の詔勅や檄文(げきぶん)の多くは彼の手になるという。政治家としても硬骨漢で、陳王朝の重鎮であった。『徐孝穆集』6巻がある。[成瀬哲生]

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世界大百科事典内の徐陵の言及

【玉台新詠】より

…10巻。簡文帝蕭綱(しようこう)が太子のころ,その意を受けて徐陵が編んだ。漢から梁に至る艶麗な詩を,五言の詩型を中心に収める。…

【中国文学】より

…北魏の酈道元(れきどうげん)の《水経注(すいけいちゆう)》のような地誌でさえ,この文体で書かれ,その風景を描写した美文は高く評価されていた。南朝の四六文の大家は(6世紀の)徐陵(じよりよう)と庾信で,巧みな対句の構成法は後世の模範となる。 文学のめざましい発展は文学の理論的考察をうながした。…

【駢文】より

…脚韻こそ踏まないが,その修辞性の強さは(ふ)などの韻文に共通するものがある。これまで述べた駢文の特色を具体的に見るために,六朝末の詩人徐陵(じよりよう)の〈玉台新詠序〉の冒頭部を例示してみよう(平声を〇,仄声を●で示す。図)。…

※「徐陵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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