簡文帝(読み)かんぶんてい(英語表記)Jian-wen-di

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「簡文帝」の意味・わかりやすい解説

簡文帝
かんぶんてい
Jian-wen-di

[生]天監2(503)
[没]天正1(551)
中国,六朝時代の梁の第2代皇帝太宗。姓名蕭綱。字,世纉 (せいさん) 。武帝の第3子で,『文選』の編者昭明太子の弟。昭明太子死後皇太子となり,反乱によって武帝を憤死させた侯景に迎えられて即位 (549) したが,やがてみずから帝位をうかがう侯景に殺害された。中国歴代の帝王のなかでも文才に富む点では屈指の存在で,6歳で文をつくって武帝を驚かせた。長じてのちもそのサロンに徐陵庾信 (ゆしん) ら多くの文学者を集め,またみずからも兄の昭明太子,弟の湘東王らと詩文を競作して楽しんだ。その詩はもっぱら男女の恋情をうたった艶麗なもので「宮体」と呼ばれて一世を風靡するとともに,のち唐の近体詩成立の基礎ともなった。 (→玉台新詠 )  

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改訂新版 世界大百科事典 「簡文帝」の意味・わかりやすい解説

簡文帝 (かんぶんてい)
Jiǎn wén dì
生没年:503-551

中国,南朝の第2代皇帝。在位549-551年。姓名は蕭綱,武帝第3子。兄昭明太子の病死後,皇太子となり,武帝の死後,反将侯景に擁立されて即位した。実権は完全に侯景に握られ,わずか2年で廃位,土囊で圧殺された。早熟の天才学問該博をきわめ,とくに詩を好んだ。その東宮サロンで徐摛(じよち)(472-549)らとはじめた男女間の情愛をきめ細かにうたう軽艶の新体詩は〈宮体詩〉と呼ばれ,放蕩文学流行の風を開いた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「簡文帝」の意味・わかりやすい解説

簡文帝
かんぶんてい
(503―551)

中国、南朝梁(りょう)の2代皇帝(在位549~551)。姓は蕭(しょう)。名は綱(こう)。字(あざな)は世纉(せいさん)。武帝蕭衍(しょうえん)の第3子。夭折(ようせつ)した昭明太子蕭統(しょうとう)(『文選(もんぜん)』の編者)の弟。後を継いで太子となった。自らも詩文にたけ、18年間の太子時代を中心に、彼の文学サロンには、徐摛(じょち)・徐陵(じょりょう)父子庾肩吾(ゆけんご)・庾信(ゆしん)父子など多数の文人が出入りし、彼らの軽艶(けいえん)な新詩風は、「宮体」とよばれた。恋愛詞華集『玉台新詠』(編者徐陵)は、彼の命で編集され、いま彼の主要な詩作品もそれに収められている。侯景の乱のさなか、侯景制圧下で即位したが、乱末期殺害された。

[成瀬哲生]

『森野繁夫著『六朝詩の研究』(1976・第一学習社)』

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世界大百科事典(旧版)内の簡文帝の言及

【宮体詩】より

…中国,六朝・梁の簡文帝蕭綱(しようこう)が皇太子であったとき,東宮に集まった文人たちとともに作った新体の詩で,当時さかんであった詠物の詩風と,江南の民歌の影響を受けている。空閨の怨みから,その姿態や調度品に至るまで,すべて女性をテーマとし,艶麗な表現を用いて詠まれており,艶体とも呼ばれて世に広まった。…

※「簡文帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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