中国、北周の詩人。字(あざな)は子山。南陽郡新野(河南省)の人。父の庾肩吾(けんご)は、南朝梁(りょう)の太子蕭綱(しょうこう)(簡文帝)の文学サロンの側近文人で、庾信も若くして蕭綱に仕えた。艶麗(えんれい)な詩風は、同時代の徐陵(じょりょう)と並べて「徐庾体」とよばれ、蕭綱の文学サロンから流行し一世を風靡(ふうび)した「宮体詩」の名手であった。しかし侯景の乱によって庾信の環境は激変する。乱平定後、元帝蕭繹(しょうえき)の命で西魏(せいぎ)の国都長安に使いしたが、長安滞在中、西魏の侵寇(しんこう)によって梁は事実上崩壊してしまう。南朝を代表する文人であった庾信は、西魏で、さらに西魏にかわった北周で厚遇され、隋(ずい)の初年、69歳で異境の地に果てた。北朝に仕えた体験は、庾信の文学を一変させた。亡国の悲しみと望郷の思いに自己の悲劇をみ続けたことは、彼の生涯のテーマとなり、多くの凄涼(せいりょう)感ただよう賦(ふ)や詩に結実した。それらは、南朝文学の終焉(しゅうえん)を暗示するとともに、次代の唐詩の激情の世界へとつながっている。「哀江南(あいこうなん)の賦」や「擬詠懐」27首が代表作。『庾子山集』16巻がある。
[成瀬哲生]
『興善宏著『中国の詩人4 庾信』(1983・集英社)』
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中国,南北朝末の詩人。字は子山。南陽新野(河南省)の人。はじめ父の庾肩吾らとともに梁の簡文帝のもとで,宮廷詩人として名を挙げた。駢儷体(べんれいたい)の詩文にすぐれ,同僚の徐陵とともに〈徐庾体〉の名をはせた。梁末に外交使節として長安に滞在中,梁が滅びたため,そのまま北にとどまって西魏・北周に仕えた。北遷後は,沈鬱な望郷の思いを重厚な表現に包む詩風により,新たな境地を開いた。《庾子山集》16巻がある。
執筆者:興膳 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…このような形式は,中国南北朝時代の方形墓誌に例が多い。またその表現には,中国北周の文人庾信(ゆしん)の作った墓誌銘と共通するものが少なくない。これはこの墓誌が庾信の作品を文集などを通じて利用したためである。…
…題材はますます広くなり,陸機の〈文の賦〉のごとく文学の理論をこの形式で説いたものがあり,陶潜(淵明)でさえ,彼にはめずらしく美女を描く〈閑情の賦〉を作ったほどである。庾信(ゆしん)の〈哀江南の賦〉は多量の典故を用いて,南朝の滅亡をうたった壮大な叙事詩というべき大作であった。
[楽府]
楽府(がふ)は漢代の宮廷に設けられた役所の名から,その楽人が演奏した曲の歌詞の総称となった。…
※「庾信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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