御山村(読み)おやまむら

日本歴史地名大系 「御山村」の解説

御山村
おやまむら

[現在地名]福島市御山・御山堂殿おやまどうでん大明神だいみようじん

小山荒井おやまあらい村の北に位置し、北部をまつ川が丸子まりこ村に向かって東流、南部には信夫しのぶ山がある。西はいずみ村、北は南矢野目みなみやのめ村。小山とも記され、近世初頭は信夫山村と称された。集落は信夫山北側の山裾と飛地である松川左岸の壁谷沢かべやさわ、信夫山の南側斜面に所在していた。信夫山北側の集落が最も大きな集落で、山裾に沿って東西に延びていた。また、小山荒井村内にも飛地があった(「村絵図」安斎家蔵)。応永二〇年(一四一三)伊達持宗と結んだ懸田定勝は関東公方足利持氏の攻撃に備え、信夫山の中腹に青葉あおば閣を築いたという(懸田史)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に記載はなく、懸田氏あるいは信夫山の羽黒権現領であったとも考えられる。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に信夫山とみえ、高五八三石余。近世初期の邑鑑でも同村名で記載され免一ツ一分、家数二一(役家四、肝煎一、諸職人・寺・山伏一六)、人数五三、役木として桑が少しある。米沢藩によって作成された万治元年(一六五八)の御山村御蔵給人領新御帳(御山区有文書)によれば、村高一千一二四石余のうち四三三石余が御蔵入地であった。

御山村
おやまむら

[現在地名]会津若松市門田町もんでんまち御山おやま

奴田ぬた山西麓に位置し、西は井手いで村、北は南青木みなみあおき村。村名は奴田山の支峰の石峰いしふう羽黒はぐろたて山を御山と称したのによるという。もとは小山と記し、のち尾山に改め、寛文年中(一六六一―七三)今の文字に改めたという(新編会津風土記)。「異本塔寺長帳」宝徳三年(一四五一)条によれば、七月一五日に蘆名家臣の松本右馬允は「尾山城主多々良伊賀カ館」を攻め滅ぼしている。

御山村
おやまむら

[現在地名]鹿島町御山

西の栃窪とちくぼ村の枝郷。北東流する真野まの川の北岸に位置し、対岸は山下やました村、東は横手よこて村。村の中央に葉山はやま(羽山)大権現(現御山神社)を祀る御山(一五一・六メートル)があり、村名の由来となっている。北の宇多うだ富沢とみざわ(現相馬市)から南下する奥州西街道は字鍵取かぎとりで西へ折れ、真野川を遡上する。明暦二年(一六五六)栃窪村より分村したとされるが(相馬藩政史)、「奥相志」はこれを寛文年間(一六六一―七三)のこととしている。天保郷帳では栃久保とちくぼ(栃窪村)に「古者 栃窪村・上栃窪村・御山村・皆野原新田四ケ村」と注記される。

御山村
おやまむら

[現在地名]浄法寺町御山おんやま

浄法寺村の東、安比あつぴ川に沿う山間に位置し、南は吉田よしだ村。桂清水かつらしみず観音(天台寺)が鎮座する村のゆえに桂清水村とも称した。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)の「一ノ部」のうちに桂清水村とあり、「印かた車絵図別紙有大馬在之」と記される。正保国絵図に桂清水村とあり、高三八石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では御山村とみえ、蔵入高八六石余、七ヵ年平均の免は一ツ八分二厘三毛。

御山村
みやまむら

[現在地名]五條市御山町

吉野川南岸に位置。井上内親王の宇智うち陵所在地で、御山は宇智陵の敬称。慶長郷帳に五条二見藩(松倉重政)領は「ミ山村」三九・四一石、旗本船越景直領は「宮村」二一九・六八石とみえ、相給村。船越領は近世を通じて変化しないが、松倉領はのち同氏の島原しまばら(現長崎県)への転封で、元和二年(一六一六)幕府領(代官宗岡弥右衛門)、同五年郡山藩(松平忠明)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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