徳倉城跡(読み)とくらじようあと

日本歴史地名大系 「徳倉城跡」の解説

徳倉城跡
とくらじようあと

[現在地名]清水町徳倉 下徳倉

徳倉の北部、狩野かの川湾曲部の内側に位置する現在の本城山ほんじようやま公園に所在した戦国大名小田原北条氏の支城。天正九年(一五八一)築城で、これを築いた北条氏側は「徳倉」と表記するが、駿河国主武田氏は北条氏領国への玄関という意味から「豆州戸倉」と表記する。なお武田氏滅亡後に徳川氏が徳倉地内に「得倉城」を築いているが、この城と当城との関係は未詳である。また当城の南方、沼津市大平おおひらとの境の出城てしろ山には「北条記」などに散見する手白山てしろやま城があった。

花押型によって天正九年と考えられる八月一三日の北条氏政書状(服部玄三氏所蔵文書)に「徳倉之普請」とみえる。五日後の八月一八日の北条氏政書状(吉田履一郎氏所蔵文書)ではこの普請を「新城」としているので、当城はこのとき築城されたと考えられ、いわゆる戸倉合戦とは、この北条氏の新城普請に対する武田側の反撃であった。


徳倉城跡
とくらじようあと

[現在地名]御津町河内

遠藤えんどう(通称城山、二三一メートル)山頂を中心に、総延長約四〇〇メートルにわたる中世の山城。山頂に南北約八〇メートル、東西一六―二四メートルの本丸跡があり、その中心に妙見菩薩を祀る。本丸跡の東側には高さ三―五メートル、長さ六〇メートル、南側には長さ三〇メートルの野面積みの石垣が残存する。本丸跡の東から北北東に下る尾根に二の丸跡および大手門跡・堀切、北に延びる尾根に三の丸跡・堀切が残り、二の丸跡に井戸跡もある。美作方面から備中へ至る交通の要衝にあたり、「太平記」巻三八(諸国宮方蜂起事)によれば、康安二年(一三六二)山陰の山名時氏の軍勢に攻められた備中守護高師秀が、松山まつやま(現高梁市)から徳倉城に退いている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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