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徳川昭武 とくがわあきたけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川昭武
とくがわあきたけ

[生]嘉永6(1853).9.24. 水戸
[没]1910.7.3. 東京
幕末の水戸藩主。民部公子ともいう。斉昭の子。一時,清水家を継いで民部大輔となった。慶応3 (1867) 年パリ万国博覧会の日本代表として将軍慶喜の代りに派遣され,外国奉行竹本隼人正,渋沢篤太夫 (栄一) ら多数の幕臣を連れて渡仏,同国で留学していたが,政変の報を聞いて帰国し,水戸藩主慶篤の跡を襲封。新政府に従って奥羽,箱館戦争 (→五稜郭の戦い ) に参加した。版籍奉還により水戸藩知事。一時,北海道開拓政策に協力して天塩 (てしお) 5郡の開拓を監督。死後,節公の名を贈られた。侯爵。従一位勲一等。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川昭武 とくがわ-あきたけ

1853-1910 幕末-明治時代の大名,華族。
嘉永(かえい)6年9月24日生まれ。徳川斉昭(なりあき)の18男。慶応2年三卿(さんきょう)のひとつ清水家をつぐ。3年パリ万国博覧会に将軍徳川慶喜(よしのぶ)の名代として参列。ひきつづきフランスで留学生活をおくる。明治元年11月帰国,最後の水戸藩主となった。宮中出仕などをへて,晩年は茨城県で植林事業にあたった。明治43年7月3日死去。58歳。初名は昭徳(あきのり)。字(あざな)は子明。号は鑾山(らんざん)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川昭武

没年:明治43.7.3(1910)
生年:嘉永6.9.24(1853.10.26)
幕末の水戸藩最後の藩主。徳川斉昭の第18男。母は万里小路睦子。慶喜の実弟。元治1(1864)年兄昭訓の急死により御所守衛に任じられ,7月の禁門の変時に常御殿東階付近を警衛,11月京都警衛の功を賞されて従五位下,民部大輔となる。同年末天狗党の西上に対し禁裏守衛総督慶喜の命で追討軍先鋒として東近江路を進軍,しかし総攻撃予定日に武田耕雲斎らが加賀藩に降伏したため帰京。慶応2(1866)年11月清水家襲封。慶喜の営内に居住。従四位下左近衛権少将。翌3年パリ万博に向山黄村以下28名を率い将軍慶喜の名代として参加。締盟各国訪問後フランス留学,徹底したフランス語教育を受ける。明治1(1868)年明治維新により慶喜が水戸で謹慎中と知り留学を断念,帰国後水戸藩襲封。同2年旧幕軍追討のため江差へ。同年版籍奉還,藩知事となる。翌3年北海道開拓を志し旧藩士と天塩5郡に入植,のち帰藩。同4年廃藩置県により藩知事免官。同9年フィラデルフィア万博見学のため渡航後,フランスに再留学。同14年帰国し松戸に隠居。<参考文献>『維新史』4,5巻

(岩壁義光)

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわあきたけ【徳川昭武】

1853‐1910(嘉永6‐明治43)
明治初年の水戸藩主,のち水戸藩知事。徳川斉昭の18子。1866年(慶応2)三卿の一つ清水家を相続。67年パリで開かれた万国博覧会に,将軍徳川慶喜の名代として参列し,スイス,オランダ,ベルギー,イタリア,イギリスの各国を歴訪し,再びパリへ戻って留学した。幕府滅亡の報をうけて68年に帰国し,同年,慶篤のあとを受けて最後の水戸藩主となった。【小野 正雄】

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