改訂新版 世界大百科事典 「徴税請負」の意味・わかりやすい解説
徴税請負 (ちょうぜいうけおい)
租税徴収の一方式で,国家が租税の徴収を一定の契約で私人に委託し,その私人(徴税請負人)自身の計算で徴収させることをいい,その制度を徴税請負制という。この方式,制度の利点は,ヨーロッパの絶対王政期の実態に即して考えた場合,(1)私的経営の方が効率的であり,徴税経費の節減をはたしうる,(2)豊凶を問わず一定の税収が確保できる,(3)契約額を先払い(貸付け)させて借入れの組織としても活用できる,などであったが,その反面,契約額以上の税収をあげて自己の利益の増大をはかる請負人によって,納税者は厳しく取り立てられる場合が多い。徴税請負はローマに発生し,ヨーロッパの絶対王政期にその典型がみられるが,その間にイスラム社会においても顕著な発展をとげた。中国でも類似した請負が存在したが,必ずしもヨーロッパ世界のそれと厳密に対応したものではなかった。
ローマ
急速に支配領域を拡大し,大帝国を形成した共和政後期のローマにおいては,官僚機構の整備が徴税事務の膨張に追いつかず,また支配下においた諸地域の従来の税制を存続させ多様な方式が併立していたので,徴税請負人(プブリカニpublicani)の活動の範囲はきわめて大きかった。属州からの徴税の請負人の決定は入札方式で行われ,大きな資本をもった層がこの権利を獲得した。彼らは属州の原住民を搾取して大きな利得を手に入れ,他の分野の実業家たちとともに,騎士身分(エクイテス)と呼ばれる有力な社会層を形成した。また,巨額の資本を調達するために,請負人たちは,現在の株式会社に似た組織をもつ団体(ソキエタス・プブリカノルムsocietas publicanorum)をつくった。しかし彼らの搾取による弊害は大きく,カエサルは請負人の活動に制限を加え,帝政期に入ると,地租および人頭税の徴収は都市当局などの正規の役人が行うこととなった。関税やアウグストゥスが創設した相続税などは引き続き請負人が徴収したが,これらの税についてもネロ帝のころから請負人の活動に対する規制が強まり,しだいに直接徴収にとって代わられていった。
執筆者:坂口 明
ヨーロッパ
ヨーロッパでは,上述のように古くは古代ローマ帝国でも行われたが,絶対王政期には,徴税請負人に対し契約額を先払いさせることによって,国家は徴税請負をもっぱら借入れの有力な手段となし,その財政の大きな特徴となった。間接税の徴収に請負制fermeを大規模に採用したフランス絶対王政は,17世紀前半には契約額の前借り,種々の臨時的借入れの手段としてこの制度を活用したので,請負契約実施中でも,有利な貸付けを呈示する請負人グループが現れると現行契約は中断され,新グループに切り替えられた。政府の関心はもっぱら当面の資金調達(借入れ)にあったため,現実の徴税能力や切替えに伴う混乱は軽視され,後に困難が生じると契約額割引や請負人側の負担すべき諸経費の割引,免除などのてこ入れでしのいだ。その結果,一定の税収の確保という徴税請負の利点は損なわれ,借入れへの利子払いは結局は徴税経費を増加させて徴税経費削減という利点も損なわれた。他方,国家への貸付けの増大は請負人側の資本の強化を促し,彼らは会社組織を結成して資本形成に当たり,さらに外部の人々の投資を仰いだ。投資家には,請負人の近親,各種の財務官,専門的金融業者のほかに,その体面や威信のゆえに公然と財政事業に関与することを慎むべき大貴族,法官,領主層も匿名投資家として加わり利益にあずかっていた。王権は,請負制を媒介に彼ら支配層から資金を引き出すとともに,彼らを財政に寄生させて相互依存の関係を確保した。
17世紀に徴税請負人は,トレタンtraitant,パルチザンpartisan(契約人)の俗称で呼ばれ,人々の怨嗟(えんさ)と蔑視(べつし)の的になり,その社会的地位の低さが強調されていたが,実際は,官職購入,貴族との婚姻を通じて社会的上昇を遂げており,しだいに支配層と融合・一体化していった。同時に,コルベールの下で群小の請負の統合が試みられ,この試みは後に総括徴税請負ferme généraleの確立となって結実し(1726),絶対王政下の貨幣取扱資本の牙城となり,巨額の貸付けと請負人手形を用いた決済・融資を実現し,総括徴税請負人fermiers générauxのほとんどは貴族身分を取得して社会的地位も確固たるものになった。しかし,この制度への依存は国家債務を累積させて財政を悪化させ,請負人の厳しい徴収に対する納税者の怒りは,頻発した反租税運動のつど,〈請負人なしの国王万才!〉の叫びとなって現れた。こうして,18世紀後半には,この制度は基本的利点を失い,国庫にとっても有利でなくなっていたが,巨額の債務を抱え,請負制を通じて支配層と相互依存関係にあった王権は,体制そのものを変革することなしにこの制度を改革できず,フランス革命期の,化学者A.L.ラボアジエを含む総括徴税請負人の処刑に示されるように,徴税請負制は絶対王政と運命を共にした。
イギリスでも,絶対王政期に関税を中心として間接税の徴収にこの制度が採用されていたが,市民革命の後には廃止され,税の徴収は原則として国家が直接徴収する方式になった。また,民間の資本形成の遅れたプロイセンは,その先進的・効率的な官僚機構を利して長く請負制を避けていた。フリードリヒ2世(大王)は七年戦争を機にこの制度を導入し,フランス人の請負人に関税,消費税などの徴収をゆだねて税収を一挙に増大させた。しかし,徴税吏の過酷な徴収に対する反発が高まり,住民は彼らを〈吸血鬼〉と呼んで流血の衝突も続発した。この〈フランス方式〉はフリードリヒ2世の死後に廃止され,直接徴収方式に替えられた。
執筆者:常見 孝
イスラム社会
イスラム社会では,徴税請負をアラビア語でダマーンḍamān,その請負人をダーミンḍāminと呼ぶ。アッバース朝(750-1258)時代になって官僚機構が発達すると,各地のハラージュやジズヤなどの徴税は中央から派遣された徴税官(アーミル)の業務となり,これに基づいて厳密な予算編成による財務行政が行われるようになった。天災や徴税官の資質にかかわりなく恒常的な収入の道を確保するために,政府は富裕な商人や地方の有力者と契約して一定地域の徴税権を委託し,契約額の確実な納入を義務づけた。これがダマーンの起りである。請負に出される徴税区は,エジプト全域のように大きなものから末端の小徴税区までさまざまであったが,請負人は現地の課税方法に基づいて徴税し,契約額を実際に徴収できない場合には,残額を自らの責任で負担しなければならなかった。このような徴税請負は9世紀末ころから盛んとなり,直轄州以外の辺境地区をおもな対象に国庫収入の約2割がダマーンによって徴収された。エジプトでは,地方の小区域を対象にした徴税請負を特にカバーラqabālaといい,毎年フスタートのアムル・モスクで請負人を決定する競り(ニダー)が行われた。官吏や地主をはじめとするカバーラの請負人は,徴税以外に水利機構の管理・維持と農民の耕作状態を監督する義務があり,この体制は軍人に徴税権を分与するイクター制が成立するアイユーブ朝(1169-1250)時代まで一貫して存続した。一方,ダマーンによる徴税請負は,イクター制の成立後も必要に応じて随時行われた。ブワイフ朝(932-1062)時代のイラクでは,イクター以外の土地がダマーンに出されたが,10世紀末以降は総督(ワーリー)による政府への納税請負が一般化した。またアイユーブ朝からマムルーク朝(1250-1517)へかけてのエジプトでは,イクター保有者が遠隔地にあるイクターからの徴税を請負人に委託することがあり,政府も酒税や鉱山税の徴収にはダマーンの制度を用いることが少なくなかった。イクター制下の徴税請負の慣行は,やがてオスマン帝国時代のイルティザーム制へと継承されてゆく。
執筆者:佐藤 次高
中国
中国では徴税請負が公式な制度となったことはない。近世を例にとった場合,政府は行政の末端として組織した村落機構の役員である里正あるいは里長,また租税徴納のために任命された明代の糧長などに徴税の責任を負わせ,彼らも定められた税額を確保するために手段を尽くし,ときには税額以上のものを徴収して私腹に入れることもあったから,これを徴税請負とみなす見解もある(里甲制)。しかし里正らは徴税の仕事を通じて利益を得ることを認められているわけではなく,逆に税額確保のためには個人的損失をともなうことの方が多かったと考えられる。他の負担とも相まって,里長などに就任したために破産にいたったというような表現も,史料の中ではしばしば見いだされる。したがって彼らが税額確保の責任を負わせられていたことをもって,徴税請負とみるのは適当でない。また納税者は担当の税吏に袖の下を贈るなど,非合法な出費が多く,一方わずかな納税のために県庁まで出向くのが煩雑とされる場合もあり,半職業的に納税代行を行う者があった。これを包攬(ほうらん)という。明末から清代にかけて,租税は納税者の直接納入がたてまえとされたが,それとともに政府のたびかさなる禁令にもかかわらず,包攬が盛行した。しかしこれも徴税請負とは性格が異なり,むしろ納税請負というべきものであろう。
執筆者:岩見 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報