エジプト・シリアを中心に,ジャジーラからイエメンを支配したスンナ派のイスラム王朝。1169-1250年。首都はカイロ。1169年ファーティマ朝の宰相となってエジプトに主権を確立したサラーフ・アッディーンは,イスマーイール派に代えてスンナ派の支配体制を復活し,またイスラム世界統一のためにアッバース朝カリフの宗主権を認めて自らは王(マリク)と称した。73年には兄弟トゥーラーンシャーTūrānshāh(?-1180)をイエメンに派遣して,東西貿易の独占を図る一方,翌年ザンギー朝のヌール・アッディーンが没すると,これを機にシリアからジャジーラへと支配権を伸ばし,十字軍包囲の体制を固めた。サラーフ・アッディーンの死後,王国は一族の間で分割され,ダマスクス,アレッポ,ディヤルバクルでは,それぞれ半独立の政権が樹立された。第5代のカーミルal-Kāmil(1177か80-1238)はこれらの地方君主を抑え,かろうじて王国の統一を保ったが,第7代のサーリフが購入したマムルーク軍のクーデタによって1250年に王朝は滅びた。
軍隊の主力はクルド人とトルコ人マムルークによって構成され,これらの軍人には建国当初からイクターが授与された。軍人たちは水利機構の管理・維持にも意を用いたから農業生産は安定し,東西貿易を担うカーリミー商人の活躍と相まって,経済は大いに繁栄した。文化的にもスンナ派擁護の政策に基づいてエジプト・シリアに多くのマドラサが建設され,またスーフィーのためのハーンカー(修道場)の建造も盛んであった。
執筆者:佐藤 次高
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ザンギー朝の部将であったクルド人のサラーフ・アッディーン(サラディン)が、1169年にエジプトのイスマーイール派のファーティマ朝を倒して建てた王朝。その領域はエジプトから始まり、シリア、ジャジーラ(イラクの北西部とシリアの北東部を含むステップ地帯)、そしてイエメン(1229年まで支配)にまで広がっていた。サラディンはエジプトを王朝の本拠地として、他の地域は分割して一族に与えて支配させた。アイユーブ朝はスンニー派イスラムの旗手として、アッバース朝カリフの宗主権を認め、スンニー派ウラマーの育成・登用などを通じて、またモスクやマドラサ、ハーンカー(スーフィーの修道場)などの建設を通じて、積極的にスンニー派の振興に努めた。また十字軍に対しても、イスラム側の反撃の先頭にたち、その勢力を大きく後退させた。しかし13世紀になると、複雑な政治情勢もあって和戦両面の政策に転換した。同朝の安定も第5代スルタン、カーミル(在位1218~1238)の時代までで、その後は内部分裂が激しくなり、1250年に自らの軍隊内のトルコ系マムルーク将校たちのクーデターによって倒された。アイユーブ朝の一派は15世紀までジャジーラの一地方勢力として残った。
[湯川 武]
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1169~1250
クルド系のサラディンがファーティマ朝を倒して樹立したスンナ派王朝。12世紀末から13世紀前半にかけて,エジプト,シリア,パレスチナ,イエメン,上メソポタミアなどを支配した。十字軍に対抗。サラディンの死後,広大な領土は諸子に分割された。エジプトのそれは,マムルーク軍団のクーデタによって滅ぼされた。
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…半島の各地に群小勢力が割拠し,メッカにはハサン家(アリーの長子ハサンの子孫),メディナにはフサイン家(アリーの次子フサインの子孫)の地方的政権が確立し始めていた。ファーティマ朝を滅ぼしたアイユーブ朝は半島の宗主権を握り,サラーフ・アッディーンが派遣した弟トゥーラーン・シャーTūrānshāhの開いたイエメンのアイユーブ朝(1174‐1229)は,ほぼ半世紀続いたあと,そのメッカ総督の開いたラスール朝(1129‐1454)に取って替わられた。エジプト・シリアでアイユーブ朝のあとを継いだマムルーク朝は,ヒジャーズの宗主権をも受け継ぎ,イエメンでラスール朝を継いだターヒル朝(1446‐1516)はマムルーク朝の武力干渉によって滅んだ。…
…そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047‐1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマのナジャーフNajāḥ朝(1021‐1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズをも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray‘朝(1138‐74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝を建設したサラーフ・アッディーンは,弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174‐1229)が成立した。しかしエジプト・シリアでマムルーク朝がアイユーブ朝に代わったのと同じように,イエメンでもマムルークがアイユーブ朝の支配権を奪い,ザビードに都してラスール朝を開いた。…
…モースルの金工の特色はアラベスクや繫ぎ卍文などを地文として,鳥獣,十二宮,帝王主題,風俗画的主題が,イランの場合と違って,すきまなく展開していることである。象嵌の技法は,アイユーブ朝(1169‐1250)にいたり,モンゴル侵攻の難を避けた工匠たちによってシリアに伝えられた。アイユーブ,マムルーク(1250‐1517)両朝時代に,特にシリアで,キリスト教的なモティーフが,伝統的なモティーフに混じって使われているのが見られる。…
…ただし文化面ではシリア出身者はそのヘレニズムの遺産をもって,いわゆるイスラム文明の興隆に大いに貢献した。
【十字軍とアイユーブ朝下での繁栄】
9世紀半ばになってアッバース朝の支配が緩んでくると,エジプトで事実上独立したトゥールーン朝(868‐905)がパレスティナから中部シリアを支配し,10世紀の前半には同様の性格をもつイフシード朝がほとんど同じ領域を支配した。10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905‐1004)が勢力を張っていた。…
※「アイユーブ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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