アイユーブ朝(読み)アイユーブチョウ(英語表記)Ayyūb

デジタル大辞泉 「アイユーブ朝」の意味・読み・例文・類語

アイユーブ‐ちょう〔‐テウ〕【アイユーブ朝】

Ayyūb》1169年、シーア派ファーティマ朝を倒して、サラディンが建国した、スンニー派のイスラム王朝。カイロを首都として、エジプトシリアを支配し、十字軍勢力に対抗。1250年マムルーク朝の成立で滅亡。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「アイユーブ朝」の意味・読み・例文・類語

アイユーブ‐ちょう‥テウ【アイユーブ朝】

  1. ( アイユーブは Ayyūb ) サラディンの建設したスンニー派のイスラム王朝。一一六九年、エジプトのファティマに代わって成立。次第に版図を広げてシリア、パレスチナイエメンなども支配し、一二五〇年マムルーク朝が成立するまで続いた。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「アイユーブ朝」の意味・わかりやすい解説

アイユーブ朝 (アイユーブちょう)
Ayyūb

エジプト・シリアを中心に,ジャジーラからイエメンを支配したスンナ派のイスラム王朝。1169-1250年。首都はカイロ。1169年ファーティマ朝の宰相となってエジプトに主権を確立したサラーフ・アッディーンは,イスマーイール派に代えてスンナ派の支配体制を復活し,またイスラム世界統一のためにアッバース朝カリフの宗主権を認めて自らは王(マリク)と称した。73年には兄弟トゥーラーンシャーTūrānshāh(?-1180)をイエメンに派遣して,東西貿易の独占を図る一方,翌年ザンギー朝のヌール・アッディーンが没すると,これを機にシリアからジャジーラへと支配権を伸ばし,十字軍包囲の体制を固めた。サラーフ・アッディーンの死後,王国は一族の間で分割され,ダマスクス,アレッポ,ディヤルバクルでは,それぞれ半独立の政権が樹立された。第5代のカーミルal-Kāmil(1177か80-1238)はこれらの地方君主を抑え,かろうじて王国の統一を保ったが,第7代のサーリフが購入したマムルーク軍のクーデタによって1250年に王朝は滅びた。

 軍隊の主力はクルド人とトルコ人マムルークによって構成され,これらの軍人には建国当初からイクターが授与された。軍人たちは水利機構の管理・維持にも意を用いたから農業生産は安定し,東西貿易を担うカーリミー商人の活躍と相まって,経済は大いに繁栄した。文化的にもスンナ派擁護の政策に基づいてエジプト・シリアに多くのマドラサが建設され,またスーフィーのためのハーンカー修道場)の建造も盛んであった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「アイユーブ朝」の意味・わかりやすい解説

アイユーブ朝【アイユーブちょう】

エジプト,シリアを中心に,メソポタミア,ヒジャーズ,イエメンを支配したスンナ派イスラム王朝。1169年―1250年。首都カイロ。ファーティマ朝の宰相サラーフ・アッディーン(サラディン)がスンナ派支配の復興のため創建。形骸化していたアッバース朝カリフを認めて自らは王(マリク)を称した。軍の基盤はトルコ系,クルド系などの奴隷軍人マムルークで,十字軍遠征に対して善戦した。サラーフ・アッディーンの死後,版図は一族の間で分割されたが,トルコ系マムルークの反乱で滅びた。→マムルーク朝
→関連項目エジプト(地域)十字軍

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイユーブ朝」の意味・わかりやすい解説

アイユーブ朝
あいゆーぶちょう
Ayyūbids

ザンギー朝の部将であったクルド人のサラーフ・アッディーン(サラディン)が、1169年にエジプトのイスマーイール派のファーティマ朝を倒して建てた王朝。その領域はエジプトから始まり、シリア、ジャジーラ(イラクの北西部とシリアの北東部を含むステップ地帯)、そしてイエメン(1229年まで支配)にまで広がっていた。サラディンはエジプトを王朝の本拠地として、他の地域は分割して一族に与えて支配させた。アイユーブ朝はスンニー派イスラムの旗手として、アッバース朝カリフの宗主権を認め、スンニー派ウラマーの育成・登用などを通じて、またモスクやマドラサ、ハーンカー(スーフィーの修道場)などの建設を通じて、積極的にスンニー派の振興に努めた。また十字軍に対しても、イスラム側の反撃の先頭にたち、その勢力を大きく後退させた。しかし13世紀になると、複雑な政治情勢もあって和戦両面の政策に転換した。同朝の安定も第5代スルタン、カーミル(在位1218~1238)の時代までで、その後は内部分裂が激しくなり、1250年に自らの軍隊内のトルコ系マムルーク将校たちのクーデターによって倒された。アイユーブ朝の一派は15世紀までジャジーラの一地方勢力として残った。

湯川 武]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アイユーブ朝」の意味・わかりやすい解説

アイユーブ朝
アイユーブちょう
Ayyūb

エジプト,シリア,パレスチナ,上メソポタミア,イエメンを支配したスンニー (正統) 派のイスラム王朝 (1171~1250) 。首都はカイロ。 1169年,シリアのザンギー朝の将であったクルド族のアイユーブ家のサラディンは,エジプトの宰相として事実上その支配者となり,さらに 71年にはシーア派であるファーティマ朝のカリフ制を廃止し,アッバース朝カリフの権威を復活して分裂したイスラム世界の再統一をはかった。イクター制を施行し,トルコ人,クルド人を中心に軍隊制度を整備すると対十字軍戦争に乗出し,87年にはハッティンの戦いで十字軍を破って,エルサレムを 88年ぶりにイスラム教徒の手に取戻した。サラディンの死後,帝国はアイユーブ一族の間で分割されたが,スルタン,カーミル (在位 18~38) の時代まではアイユーブ家の統一は比較的よく保たれていた。その後一族の内紛によって衰退に向い,1250年,スルタン,サーリフ (在位 40~49) が雇い入れたマムルーク軍人の蜂起によって王朝は崩壊した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アイユーブ朝」の解説

アイユーブ朝(アイユーブちょう)
Ayyūb

1169~1250

クルド系のサラディンファーティマ朝を倒して樹立したスンナ派王朝。12世紀末から13世紀前半にかけて,エジプト,シリア,パレスチナイエメン,上メソポタミアなどを支配した。十字軍に対抗。サラディンの死後,広大な領土は諸子に分割された。エジプトのそれは,マムルーク軍団のクーデタによって滅ぼされた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アイユーブ朝」の解説

アイユーブ朝
アイユーブちょう
Ayyūb

1169〜1250
ファーティマ朝につぐカイロを都としたイスラーム王朝
シリア地方のクルド人であるアイユーブ家出身の宰相サラディンが前王朝を倒して建設。トリポリからイエメン・メソポタミアの大半を領有する帝国に発展し,イェルサレム王国を占領,第3回十字軍を撃破した。スンナ派を奉じ,灌漑農耕を整備・拡充した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアイユーブ朝の言及

【アラビア半島】より

…半島の各地に群小勢力が割拠し,メッカにはハサン家(アリーの長子ハサンの子孫),メディナにはフサイン家(アリーの次子フサインの子孫)の地方的政権が確立し始めていた。ファーティマ朝を滅ぼしたアイユーブ朝は半島の宗主権を握り,サラーフ・アッディーンが派遣した弟トゥーラーン・シャーTūrānshāhの開いたイエメンのアイユーブ朝(1174‐1229)は,ほぼ半世紀続いたあと,そのメッカ総督の開いたラスール朝(1129‐1454)に取って替わられた。エジプト・シリアでアイユーブ朝のあとを継いだマムルーク朝は,ヒジャーズの宗主権をも受け継ぎ,イエメンでラスール朝を継いだターヒル朝(1446‐1516)はマムルーク朝の武力干渉によって滅んだ。…

【イエメン】より

…そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047‐1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマのナジャーフNajāḥ朝(1021‐1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズをも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray‘朝(1138‐74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝を建設したサラーフ・アッディーンは,弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174‐1229)が成立した。しかしエジプト・シリアでマムルーク朝がアイユーブ朝に代わったのと同じように,イエメンでもマムルークがアイユーブ朝の支配権を奪い,ザビードに都してラスール朝を開いた。…

【イスラム美術】より

…モースルの金工の特色はアラベスクや繫ぎ卍文などを地文として,鳥獣,十二宮,帝王主題,風俗画的主題が,イランの場合と違って,すきまなく展開していることである。象嵌の技法は,アイユーブ朝(1169‐1250)にいたり,モンゴル侵攻の難を避けた工匠たちによってシリアに伝えられた。アイユーブ,マムルーク(1250‐1517)両朝時代に,特にシリアで,キリスト教的なモティーフが,伝統的なモティーフに混じって使われているのが見られる。…

【シリア】より

…ただし文化面ではシリア出身者はそのヘレニズムの遺産をもって,いわゆるイスラム文明の興隆に大いに貢献した。
【十字軍とアイユーブ朝下での繁栄】
 9世紀半ばになってアッバース朝の支配が緩んでくると,エジプトで事実上独立したトゥールーン朝(868‐905)がパレスティナから中部シリアを支配し,10世紀の前半には同様の性格をもつイフシード朝がほとんど同じ領域を支配した。10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905‐1004)が勢力を張っていた。…

※「アイユーブ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android