三重県伊勢市にあった臨済宗の尼寺。室町時代中期,守悦尼が開いたと伝えるが,3代清順尼,4代周養尼のとき伊勢神宮と密接な関係を生じた。神宮への崇信が厚い清順尼は,1551年(天文20)宇治橋架橋をなしとげ,その功で慶光院の院号を勅許され,ついで戦国争乱のために20年ごとに造替される神宮社殿の式年の遷宮が100余年も絶えていることを嘆き,後奈良天皇の勅旨を得て,勧進聖(かんじんひじり)として回国し浄財を集めた。尼が神宮の勧進聖として資金を集めるのは,朝廷や神宮の勢力が衰微した戦乱期とはいえ異例のことだった。こうして,1563年(永禄6)外宮の式年正遷宮(しようせんぐう)の大典が復興した。4代周養尼も前例によって勅旨をうけ,諸国を勧化(かんげ)して浄財を集め,1585年(天正13)内宮と外宮の式年正遷宮をなしとげた。ここに,慶光院院主は朝廷から代々紫衣(しえ)と上人号を勅許され,20年ごとの神宮式年の正遷宮は当院のあずかるところとなった。院主は〈伊勢上人〉〈遷宮上人〉とも呼ばれた。神宮との関係で寺中に仏像や鐘鼓は置かなかったが,朝廷や幕府の崇信を得て威厳格式は高く,神宮の神官以上の権勢をもつようになり,隠然たる力を皇室・豊臣家・徳川家の内部にもった。近世初期,庫裏や客殿などを豊臣秀頼が寄進建立して寺観を整備したが,維新後の1869年(明治2),政府の神仏分離政策によって廃寺となり,建物は神宮祭主の官舎となった。
執筆者:藤井 学
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伊勢(いせ)国度会(わたらい)郡(三重県伊勢市)宇治浦田町にあった伊勢神宮の尼寺。本寺のない臨済宗の寺で、室町末期に創立された。代々、伊勢神宮の衰微を嘆いて、その復興を志したため、3代清順(?―1566)のとき、その功によって後奈良(ごなら)天皇により上人(しょうにん)号が代々の院主(いんじゅ)に、その住居する寺院に慶光院の名称が与えられた。院主は紫衣(しえ)勅許の比丘尼(びくに)で、伊勢上人あるいは遷宮上人といわれ、神宮の神官をしのぐ権勢を有していたが、1869年(明治2)廃寺となり、その跡は伊勢神宮の神官・祭主の居住所となっている。
なお、徳川3代将軍家光(いえみつ)の愛妾(あいしょう)お万の方(かた)は慶光院院主から江戸大奥入りしたことで知られる。
[石上善應]
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