宇治橋(読み)ウジバシ

百科事典マイペディアの解説

宇治橋【うじばし】

京都府宇治市を流れる宇治川に架かる橋。流路の変化などにより架設位置は同じではないが,現在の宇治橋あたりに7世紀中葉に架橋されたのが最初。《日本書紀》(天武天皇元年5月条),《続日本紀》(文武天皇4年3月10日条)や《日本霊異記》《帝王編年記》に関係記事があり,1791年橋畔の橋寺放生(はしでらほうじょう)院で造橋碑の断片が発見されている。断定はできないが,646年に道登・道昭(道照)が共同で架橋したとする説が有力。奈良時代の宇治橋は北陸道(のちの奈良街道)の宇治川渡河点に架けられており,《日本書紀》によれば壬申(じんしん)の乱のとき,大友皇子近江朝廷は〈守橋者〉に命じて大海人(おおあま)皇子方が兵粮を運ぶためにこの橋を通過するのを防がせている。平安遷都後も都への枢要な出入口に位置する橋として重要視され,810年の薬子(くすこ)の変,842年の承和の変など,非常の際には警護の兵が派遣された。古代には修造は朝廷によって行われ,敷板は毎年近江国が10枚,丹波国が8枚を進めることに定められていた(《延喜式》)。しかし宇治川はしばしば氾濫し,橋は流失,再構を繰り返した。また宇治川を挟んでの合戦の際には橋板を引き落して渡河を妨げることが行われた(《平家物語》《承久記》《太平記》)。中世以降の主な修造に1286年の奈良西大寺の僧叡尊によるもの,1579年の織田信長によるもの,1599年の徳川家康によるものがある。叡尊は工事に先立ち宇治川一帯の殺生を禁じ,宇治橋上流に浮島(うきしま)十三重石塔を建立している。徳川家康の修造は豊臣秀吉による廃絶後の復旧と伝える。江戸時代には幕府が修理ないしは造替(ぞうたい)する公儀橋となり,東詰にある通円(つうえん)茶屋が橋守を務めた。宇治橋は《古今和歌集》以降,多くの歌に詠まれ,歌枕としても知られた。
→関連項目宇治

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大辞林 第三版の解説

うじばし【宇治橋】

京都府宇治市にあって宇治川に架かる橋。橋姫の伝説がある。⦅歌枕⦆
三重県伊勢市の五十鈴いすず川に架かって、伊勢神宮内宮の表参道に通じる橋。

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世界大百科事典内の宇治橋の言及

【道登】より

…高句麗に留学した経験を持ち,元興寺(飛鳥寺)に住したとみられる。宇治橋碑によると,646年,人畜をすくうため,山背の宇治橋を架けたという。ただ同碑の造立年代には異説もあり,《続日本紀》に宇治橋は道昭の造立としていることもあって,問題が残る。…

※「宇治橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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