慶州(大韓民国)(読み)けいしゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「慶州(大韓民国)」の意味・わかりやすい解説

慶州(大韓民国)
けいしゅう / キョンジュ

韓国(大韓民国)、慶尚北道(けいしょうほくどう/キョンサンプクド)にある古都。面積1323.69平方キロメートル、人口27万5132(2000)。1955年、慶州郡の一部を分離し慶州市を設置。95年、慶州郡と統合。迎日(げいにち/ヨンイル)湾に注ぐ兄山江(けいざんこう)上流の侵食盆地に位置する。市街地の周囲には明活(めいかつ)山(245メートル)、金鰲(こんごう)山(495メートル)、仙桃(せんとう)山(380メートル)など丘陵性の山が取り囲み、秀麗な景観をなす。農業は米作を中心に周辺地域で行われ、リンゴ、ナシなど果樹が栽培される。市街地は格子型の街路構造をもっており、市内には王陵、瞻星(せんせい)台、仏国寺の多宝塔・釈迦(しゃか)塔、雁鴨池(がんおうち)など新羅(しらぎ)時代の遺跡が多く、国立公園に指定された観光都市である。古墳公園、博物館、ホテルなど観光開発が進められており、また、高速道路を使った直行バスや、あるいは特急列車によりソウル、釜山(ふざん/プサン)からの交通も便利で、内外からの観光客が多い。1995年に石窟庵と仏国寺が、2000年に「慶州歴史地域」がそれぞれ世界遺産の文化遺産に登録された。

[森 聖雨]

歴史

辰韓(しんかん)12国中の斯盧(しろ)国に始まるが、首都としての体裁を整えるようになるのは4世紀からであり、その造営が本格化するのは6世紀以降のことと思われる。最初の王城は金城といわれるが、位置は不明である。やがて月城(新月城、半月城、在城)が南川を背にその北岸に築かれ、おもにその北側の地域に都城が営まれた。首都は梁(たく)部、沙梁(さたく)部、牟梁(むたく)部、本彼(ほんぴ)部、漢祇(かんぎ)部、習比(しゅうひ)部の6部にまず区分されていた。さらに方形地割が二度にわたって施され、坊里制が敷かれていた。そして月城を中心に官衙(かんが)、宮殿寺院が配され、民家が軒を連ねていた。『三国遺事』はそのようすを、「京中十七万八千九百三十六戸、一千三百六十坊、五十五里」と伝えている。首都には羅城がなく、周囲の山々に山城を築いて守りとした。935年に高麗(こうらい)に降(くだ)るまで、慶州は一貫して新羅の首都であり続けた。わずかに一度だけ、689年に大邱(たいきゅう)への遷都が計画されたが、それも果たされずに終わった。慶州は新羅貴族の重要な勢力基盤をなしていたからである。

木村 誠]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

自動車税・軽自動車税

自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...

自動車税・軽自動車税の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android