成恩寺跡(読み)じようおんじあと

日本歴史地名大系 「成恩寺跡」の解説

成恩寺跡
じようおんじあと

天王てんのう山南麓の京都府大山崎町大山崎にあった寺院。平安―鎌倉初期の近江延暦寺妙香みようこう院末としての成恩寺と、鎌倉後期以降明治までの京都東福寺末寺成恩寺の二つに分れる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔妙香院末成恩寺〕

安貞二年(一二二八)二月二七日の太政官符(門葉記)は、第一次成恩寺の歴史と寺域とを明示する。藤原師輔は良源と師檀の契約が深く、比叡山に妙香院を建立したが、山崎やまさき西願せいがん(成恩寺の前身)は、その妙香院の別院の一である。永祚二年(九九〇)妙香院が朝廷の祈願所となり、別院にも狼藉あるべからざる由の官符が下されたが、その後荒廃が進んだ。鎌倉時代に入って、妙香院検校(のち天台座主)となった良快は、兄弟であり師檀の関係にもある九条良平に西願寺を譲り、良平は大いに修造を加え回廊鐘楼・大門などを新たに建立、また本堂には藤原鎌足以下祖先の影像を安置し、寺名を成恩寺と改め、また同時に建立した浄土院とともに阿闍梨三口をおいた。この成恩寺のために、諸方の狼藉を断つため官符をほしいという良快の解状に対し、朝廷は永祚の官符に任せて、官使・院宮・諸家・神社・仏寺ならびに国衙使などの乱入および向後濫妨停止を山城国衙に伝えたのが、すなわちこの官符である。寺域の四至は「東限溝口谷 南限播磨大路北 西限西谷西峰 北限八王寺山南谷」と示される。天王山山裾から西国街道まで、JR山崎駅や妙喜みようき庵一帯がその範囲であろう。なお平安後期の「伊呂波字類抄」に「宝山寺宝寺 宝積寺同寺之異名歟、山崎橋辺、西願寺北」とあって、平安後期にはたから(宝積寺、現大山崎町)と並んで山崎の西願寺も著名であったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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