戦後改革と新制大学(読み)せんごかいかくとしんせいだいがく

大学事典 「戦後改革と新制大学」の解説

戦後改革と新制大学
せんごかいかくとしんせいだいがく

[六・三・三・四制の成立]

第2次世界大戦敗戦後新制大学制度の形成過程における最初の大きな節目は,1946年(昭和21)3月に発表された「米国教育使節団報告書」である。そこでは民主的教育を目指しての制度の再構築という,占領軍教育改革の基本的方向性が述べられ,高等教育に関してはたとえば男女の隔てのない高等教育機会の提供など,「少数者の特権」ではなく「多数者のための機会」をもたらすべきことがうたわれた。しかし初等・中等教育で「六・三・三制」が提言されたのと対照的に,高等教育に関しては教員養成が4年制とされた以外は,具体的な制度の提案はなされていない。報告書では大学とほかの旧制高等教育機関との関係もあいまいで,多様な機関が併存することを前提とした内容であった。よって新制大学制度の具体的な検討は1946年8月の教育刷新委員会(日本)(のち教育刷新審議会(日本)と改称)の発足とともに本格的に開始されることになる。

 教育刷新委員会では,旧制の高等学校存置が根強く主張され,また帝国大学に相当する学問研究の場を確保することが求められるなど,上述の報告書とは異質なエリート主義的な議論の方向性がみられた。したがって高校・大学の年限に柔軟性をもたせる方向で議論は進み,1946年12月の高等教育にかかわる建議では,原則的には六・三・三・四制を基調としつつ,高校は4~5年制を認め,大学も3年制や5年制も認めるとされた。これは当時みられた意見や高等教育機関の実態の多様性を踏まえて,ある程度の柔軟さをもつ制度への移行を図ろうとする現実的な構想であった。文部省はこの建議にもとづき学校教育法案を作成し,閣議に請議した。しかしその過程で承認をもとめられた連合国総司令部(GHQ)民間情報教育局(Civil Information and Educational Section: CIE)によって法案の内容は大幅に修正され,修業年限は高校が3年,大学が4年と定められ,それは例外を許さない絶対的なものとされた。CIEは六・三・三・四制の堅持を求めたのである。

 こうして新制大学の骨格はCIEの強力な介入によって形成されたといえるが,しかしそれにおさまらない側面もあった。実のところ教育刷新委員会やCIEに影響を与えた日本側が作成した学制改革案が存在する。それは日本側教育家委員会と呼ばれる,そもそもは米国教育使節団に協力するために設けられた委員会による非公開の報告書(1946年3月頃の作成とされる)である。そこでは教育制度の単線化が目指され,大学と専門学校の一本化や高等学校の廃止が明記されていた。こうした構想が日本側から出された背景には,戦前の学制改革論議のなかで同様の内容がすでに一定の支持を受けていたことがあったとされる。そして,この日本側教育家委員会の主要メンバーであった南原繁らが教育刷新委員会にも加わっていたことにより,そこでの議論は前述のように六・三・三・四制を基調とする内容となり,他方で占領軍側にも日本側教育家委員会の報告書は渡され,それが学校教育法案への介入の根拠とされたともいわれる。

 以上のように一面では新制大学の基本的構造はCIEの強い圧力によって作られたが,他方で同様の構想を日本側ももち,それが制度形成に影響を与えたという側面もあった。六・三・三・四制が押しつけだったのか,日本側の自発的なものだったのかという問いの答えは,その両面があったということになる。そして学校教育法は1947年(昭和22)3月に公布され,4年制に一本化された大学は49年4月からの発足とされた。

 大学制度の骨格が定まりつつあった時期から,教育課程などの大学の中身の検討もなされている。しかしその検討は正規の審議機関であるはずの教育刷新委員会とは異なる場でなされた。CIEの強い影響のもと,1946年10月に大学設立基準設定協議会(日本)が創設され,大学基準の検討に着手した。これはCIEの意向に反対しがちな教育刷新委員会を回避して検討を進めるためだったといわれる。この協議会はその後文部省から独立し,大学設立基準設定連合協議会を経て,1947年7月の大学基準協会(日本)創設へと連なっていく。こうして民間機関で検討された大学基準が大学設置の際の基準にされていくのである。そこでは人文・社会・自然の3領域の履修を義務づける一般教育や単位制の導入など戦後の大学教育のあり方を大きく規定する内容が盛り込まれていた。

 さらに大学基準協会は大学院基準の検討も行い,そこで新制大学院制度の基本構造が決められていった。大学院基準(1949年4月)では旧学制期にはなかった修士学位が置かれることとされ,課程修了のための在学年数や単位数も定められた。これらはいずれもCIEの強い指導により検討が進められた。CIEは学士課程に一般教育を導入し,進んだ専門教育は課程制大学院で行うという大学像を目指していた。しかしそのことは日本側にはほとんど理解されないままであった。

 私立大学に関わる制度も大きく変化した。私立学校法(日本)は1949年(昭和24)に成立したが,そこでは私立大学の設置母体は学校法人であることとされた。しかしここでもCIEは強く介入し,概して占領軍は私立大学に対して好意的であったこともあり,新たな制度設計は私学側の意向を大幅に取り入れ,旧学制期と比べると政府による私立学校への介入は大幅に制限されることとなった。

[新制大学設置の過程]

上述のように新制大学は1949年度より発足する予定であった。しかし12校の公・私立大学が48年度よりいわば抜け駆け的に発足した。12校のうち11校が私立大であったことからうかがえるように,予定より早い発足の背後にはCIE関係者と私学との密接な関係があった。49年度には174校(国立69校,公立18校,私立87校)の設置が認められている。その後しばらくは新制大学移行に伴う校数の増加が続くが,数年後にはそれも落ち着き,55年には228校(国立72校,公立34校,私立122校)となっていた。

 新制大学創設の過程でとくに大きな変動を経験したのは国立大学(日本)である。旧帝国大学等の一部の大学を除き,ほかを地方移管するという案がCIEから提案されたこともあったが,結局のところは一府県一大学を原則とする新制国立大学実施要綱(1948年)に基づき国立大学が設立されていった。人口が多いことで例外とされた六つの都道府県を除き,他の県では多様な旧制高等教育機関が強制的に合併させられた。多くの地域で反対運動が発生し,いくつかの学校は最後まで単独での大学化を求めて抵抗したが,最終的には上述の原則が貫徹されることになる。他方で私立大学の多くが戦災による被害を受け,敗戦後は急激なインフレや預金封鎖などにより財務状況はきわめて悪化していた。そうした中で教員増や施設設備の新増設が求められる新制大学移行は大きな負担となった。しかし私学側の新制大学化への意欲は強く,またCIEによる後押しもあって,十分な質が伴わないままの大学設置も少なくなかったといわれる。加えて,大学移行が物的・人的条件から困難な学校の救済策として暫定的につくられたのが短期大学である。1950年(昭和25)に発足し,64年に制度として恒久化された。

 このように戦後改革によって大学大衆化の時代を準備する制度的基盤がつくられていった。しかしCIEのたびたびの介入によって作られた制度は,しばしば日本側の十分な理解を欠いたままに定着し,たとえば一般教育や大学院にかかわる問題など戦後の主要な改革課題をもたらす結果となった。
著者: 伊藤彰浩

参考文献: 海後宗臣・寺﨑昌男『大学教育―戦後日本の教育改革9』東京大学出版会,1969.

参考文献: 土持ゲーリー法一『新制大学の誕生―戦後私立大学政策の展開』玉川大学出版部,1996.

参考文献: 大﨑仁『大学改革1945~1999』有斐閣,1999.

参考文献: 土持ゲーリー法一『戦後日本の高等教育改革政策』玉川大学出版部,2006.

参考文献: 草原克豪『日本の大学制度―歴史と展望』弘文堂,2008.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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