排日移民法(読み)はいにちいみんほう

改訂新版 世界大百科事典 「排日移民法」の意味・わかりやすい解説

排日移民法 (はいにちいみんほう)

20世紀初め日本移民を制限したアメリカ一連の法律。とくに1924年に成立した割当移民法を指す(ただし,カナダ,オーストラリアのほか,ラテン・アメリカ諸国にも排日移民法は存在した)。この法律によって,日本人帰化不能外国人ということで入国はいっさい禁止された。日本移民の排斥は,19世紀末日本移民がアメリカ本土に数千しかいなかったころから始まり,20世紀になると,カリフォルニアをはじめ西部諸州で激しくなった。日本移民が安い賃金で働き白人労働者の反発を買ったことが主因とされるが,その貧しい生活や異様な風習がアメリカ人に嫌悪感をおこさせ,人種的偏見によって増幅され,さらにはアメリカのアジア進出と日本の興隆による利害衝突黄禍論にまで発展した。排日運動は単に民衆による差別やいやがらせだけでなく,土地所有制限・禁止(1913,20年のカリフォルニア州法など)や各種の職業制限など,経済活動を妨害する州法や,日本人学童の隔離(1906年,サンフランシスコ市。翌年撤回)という行政指導など広範に及んでいる。アメリカの移民制限は1882年の中国移民を最初とし(1902年には無期限に修正),1917年に日本を除くアジア,太平洋諸島からの移民を禁止し,21年には,増加傾向にあった東・南欧移民を主対象とする比例制限法をもうけ,24年の割当移民法では日本移民禁止のほか,各国への割当てもさらに厳しく規定した。ベルサイユ条約(1919)により一等国の仲間入りをしたと自任する日本国民にとっては,差別的排日移民法はその自尊心を著しく傷つけるものであった(公然たる日本移民差別を避けるため,1908年来日本政府は紳士協定によりアメリカへの移民を自粛していた)。日本の新聞はこぞって反米熱をあおり,一部には日米開戦論さえ真剣に論じられるようになった。この法律は明治初年以来の親米的国論終止符をうち,日本人の中に反米的気運を沈潜させることになった。なお,同法は第2次大戦後の65年に撤廃された。
日系アメリカ人
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百科事典マイペディア 「排日移民法」の意味・わかりやすい解説

排日移民法【はいにちいみんほう】

1924年制定の米国の割当移民法。1907年の日米紳士協約で日本は対米移民を自発的に制限することを約束したが,その後も米国政府はこの協約の実効について不満をのべカリフォルニアの排日運動も激化した(排日土地法)。1922年米国最高裁は日本人の帰化権を否認,1924年排日移民法を制定して日本人の移民を完全に禁止した。第2次大戦後の1965年に撤廃された。
→関連項目移民日系アメリカ人

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「排日移民法」の解説

排日移民法
はいにちいみんほう

正式にはアメリカ合衆国1924年移民法。1890年度国勢調査にもとづく国別の外国生れ人口の2%に相当する人数の移民を各国から受け入れることを骨子としていた。ただし「帰化不能外国人」は入国を禁ずるとする付帯条項がつけられ,1922年の最高裁判決によって帰化権を拒否された日本人は入国を禁じられたため,排日移民法とよばれる。これにより,1908年に締結された紳士協約は廃棄,その後の日米関係悪化の要因となったといわれる。同法は,52年にマッカラン・ウォルター法によってこの付帯条項が廃棄されるまで,28年間施行された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「排日移民法」の解説

排日移民法
はいにちいみんほう

大正時代,アメリカが日本人の移民の入国を禁止しようとして制定した法律
1924年,太平洋沿岸のアメリカ諸州では,特に日露戦争後,激増した日本人労働者の渡米を制限しようとし,カリフォルニア州議会に端を発した排日法が連邦議会でも通過した。これによって明治末期に締結された日米紳士協約は廃棄されることとなった。

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