文章院(読み)モンジョウイン

デジタル大辞泉 「文章院」の意味・読み・例文・類語

もんじょう‐いん〔モンジヤウヰン〕【文章院】

平安時代大学別曹。承和元年(834)ごろ、菅原清公建議により、文章道を学ぶ学生のための施設として設けられた。東西両曹があり、東曹は大江家、西曹は菅原家が管轄したので、しだいに両氏のための大学別曹となった。

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精選版 日本国語大辞典 「文章院」の意味・読み・例文・類語

もんじょう‐いんモンジャウヰン【文章院】

  1. 平安京にあった大学寮を構成する紀伝道建物。文章道を学ぶ学生を教育し、またその一部分を寄宿させたもの。承和元年(八三四)に創設され、東西両曹があり、東曹は大江家、西曹は菅原家が管轄した。大学別曹とは元来異質のものであったが、次第に菅原・大江両氏のための施設としての性格が強くなった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文章院」の意味・わかりやすい解説

文章院
もんじょういん

平安時代、文章道の学生(がくしょう)の教育機関。834年(承和1)ごろ菅原清公(すがわらきよきみ)の建議で、大学寮敷地内に創設。東西両曹司(ぞうし)に分かれ、東曹は大江、高丘、藤原、紀(き)、三善(みよし)の各氏の者が、西曹は菅原、藤原(門流によって分かれる)、橘(たちばな)の各氏の者が籍を置いて勉学した。のちには、東曹は大江氏、西曹は菅原氏曹主となり、大学別曹をもたない氏の文章生が寄宿するとともに、一般に文章得業(とくごう)生になった者が籍を置いて研鑽(けんさん)する場所となる。大学の教育機関で、各氏の大学別曹とは性格が異なる。

[大塚徳郎]

『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店/復刻・1983・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「文章院」の意味・わかりやすい解説

文章院 (もんじょういん)

平安京にある大学寮の中の紀伝道の建物。紀伝道の源流は奈良時代にあるが,平安時代に入ってにわかに盛んになり,入唐して昭文館・崇文館を見て帰国した菅原清公が,文章博士が2人に増員されて他道と対等となった834年(承和1)のころ,朝廷に申請してすでにあった明経道院(南堂)・算道院・明法道院の北に創建し,北堂ともいわれた。東西曹司(そうじ)があり,菅原・大江両氏が分掌した。北堂では文章博士の講義や竟宴きようえん)がおこなわれ,両曹司には学生が住んだ。紀伝道の学生が文章生から文章得業生(文章生のうち優秀者)になると,菅原・藤原(広業・資業の子孫)・橘は西曹,大江・高階・藤原(実範・明衡・在衡)・紀・三善は東曹というように氏によって分けられるようになり,さらに方略試を受けるときの試験官は公平を期するため別の曹司から出た。紀伝道の隆盛に伴い盛んであった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文章院」の意味・わかりやすい解説

文章院
もんじょういん

平安時代,大学寮におかれた曹司 (そうじ。寄宿学舎) の一つ。9世紀中頃菅原清公 (きよとも) の奏請により設置。文章道を教授。東西両曹司があり,東曹には大江,高階,藤原,紀,三善,西曹には菅原,藤原,橘の各氏の子弟を収容したが,のちに東は大江,西は菅原氏が曹主となり,それぞれの独占機関となった。治承年間 (1177~81) 焼失し,再建されなかった。

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世界大百科事典(旧版)内の文章院の言及

【紀伝道】より

…教官も菅原,大江,南家藤原の諸氏により独占世襲されることとなり,文章得業生もこれら諸氏の出身者で占められた。教場としては大学寮の北側に文章院(北堂)があったが,平安末期にはすたれ,教官の家塾で教育が行われた。なお学科の正式名称は紀伝道で,文章道(もんじようどう)ではない。…

※「文章院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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