紀伝道(読み)キデンドウ

デジタル大辞泉 「紀伝道」の意味・読み・例文・類語

きでん‐どう〔‐ダウ〕【紀伝道】

律令制大学寮での四道の一。中国史書詩文を学ぶ学科。初め文章道もんじょうどうとよばれたが、平安時代に入って紀伝道が公称となり、四科の中で最も重んぜられるようになった。

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精選版 日本国語大辞典 「紀伝道」の意味・読み・例文・類語

きでん‐どう‥ダウ【紀伝道】

  1. 〘 名詞 〙 平安時代の大学寮の学科の一つ。中国の正史である史記漢書後漢書三国志、晉書など、あるいは文選、詩文等の教授をした。この道としての公称は平安時代にはじまるが、実質的な学習は奈良時代にも行なわれていた。紀伝。
    1. [初出の実例]「群書治要或用明経記伝各一人、近代雖読七経、只以記伝道宿儒博学被昇殿之輩」(出典:新儀式(963頃)四)

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改訂新版 世界大百科事典 「紀伝道」の意味・わかりやすい解説

紀伝道 (きでんどう)

日本古代の大学寮の四道(主要な4学科)の一つ。元来,令制では経学を学ぶ明経道(みようぎようどう)が重んぜられていて,紀伝道は置かれていなかった。しかし,一般知識社会においても,特殊な政治・道徳理論よりも,史書・文章のほうが日常親しみやすいので,その専攻学科の設置が望まれるに至り,紀伝道が生まれることとなった。設置の最初は,奈良時代の半ばころ,728年(神亀5),文章博士(もんじようはかせ)1人が置かれ,ついで730年(天平2)に文章生20人が置かれたのに始まる。やがて平安時代に入ると,紀伝道は急激に隆盛になり,学問の代表的なものとされて,まったく貴族的なものになった。制度的にも種々の変遷があったが,平安中期にはその形も定まった。すなわち,教科内容は三史(《史記》《漢書》《後漢書》)その他の中国の歴史書や,《文選(もんぜん)》以下の中国の詩文などであり,教官には文章博士2人があたった。文章生は20人で,これを進士と称したが,その中の優秀な者2人を文章得業生とし,これは秀才と称した。また文章生の希望者が多いので,文章生候補者として,擬文章生20人が置かれた。そして学生は大学寮の寮試を受けて擬文章生となり,次に式部省の省試を受けて文章生となって,やがて種々の官職につき,一部は文章得業生から〈対策〉という作文の試験を経て,文筆の官職につく例で,多くの文人があらわれた。しかし紀伝道の最盛期は平安中期で,以後はしだいに形式化し,すぐれた作品も生まれないようになった。教官も菅原,大江,南家藤原の諸氏により独占世襲されることとなり,文章得業生もこれら諸氏の出身者で占められた。教場としては大学寮の北側に文章院(北堂)があったが,平安末期にはすたれ,教官の家塾で教育が行われた。なお学科の正式名称は紀伝道で,文章道(もんじようどう)ではない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀伝道」の意味・わかりやすい解説

紀伝道
きでんどう

平安時代の大学寮の学科。紀伝、明経(みょうぎょう)、明法(みょうぼう)、算(さん)の四道の一つ。『史記』『漢書(かんじょ)』『文選(もんぜん)』などの史書、詩文などを教科内容とする。「令(りょう)」の規定では、明経道が根本であったが、728年(神亀5)に文章博士(もんじょうはかせ)が、730年(天平2)に文章生(しょう)が置かれ、紀伝道が盛んになった。808年(大同3)、文章博士と並んで、初めて紀伝博士が置かれ、紀伝道の学科名が成立した。学生のなかから、式部省の詩文を読む寮試によって擬(ぎ)文章生となる者が20人、さらに省試(文章生試)を受けて文章生(20人)となり、そのうち成績優秀なる者2人が文章得業生(とくごうしょう)となる。これは衣食を給せられる給費生であり、対策(方略試)と称する論文試験を受けて官位を給せられる。教官は文章博士。従(じゅ)五位下の官である。834年(承和1)には紀伝博士を廃し、文章博士1人を増し定員2名となった。他道たとえば明経道では、明経博士、明経生からなる学科を明経道と称したのに対し、文章博士、文章生などからなる学科を紀伝道と称することとなった。紀伝道は、文章道と別個の道(学科)を形成するものではなく、文章道と同じ道で職掌任務も一部分担するものである。紀伝道の家としては、平安時代を通じて菅原(すがわら)、大江、藤原氏の南家、式家、北家日野流があり、5家が独占した。

[山中 裕]

『桃裕行著『上代学制の研究』復刊(1983・吉川弘文館)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀伝道」の解説

紀伝道
きでんどう

大学寮の四道の一つで,漢文学・中国史を教授した学科。文章博士(もんじょうはかせ)2人の教授陣と,そのもとで学ぶ文章得業生(とくごうしょう)2人,文章生20人,擬文章生20人で構成される。大学の教科書としては,紀伝の書である三史(「史記」「漢書」「後漢書」)と,文章の書である「文選(もんぜん)」が奈良時代から学ばれていたが,紀伝道が成立したのは9世紀中期に入ってからである。文章得業生・文章生の対応する試験は本来は秀才・進士(しんし)の二つだったが,紀伝道の成立後は事実上秀才に一本化され,文章得業生がその正規の受験資格者として位置づけられた。文章生を選抜する文章生試は式部省によって行われて省試(しょうし)とよばれ,その受験資格者として擬文章生がおかれた。秀才試及第者は学者官人,文章生から出仕した者は一般官人として活躍し,ともに参議以上に昇進する者を輩出した点で,紀伝道は四道の花形であった。文章生になれなかった者にも,年挙(ねんきょ)による任官の道が開かれていた。なお紀伝道を文章道とよぶのは明治期以降の誤伝である。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀伝道」の意味・わかりやすい解説

紀伝道
きでんどう

平安時代の大学寮における学問四道の一つ。中国の正史『史記』『漢書』『後漢書』の三史と『文選 (もんぜん) 』などの詩文を教科とする。元来,令制大学寮の規定には,三史や文章の教科はみえないが,神亀5 (728) 年大学寮に文章 (もんじょう) 博士1人をおき,『文選』の講読や作文の教授にあてた。のち吉備真備が唐から帰朝し,史書 (紀伝) 尊重の風を振興,大同3 (808) 年初めて紀伝博士1人を文章博士と併置し,ここに紀伝道の名は公的になった。しかしのち良家の子弟の多くが文章道を志し,紀伝道がふるわなくなると,承和1 (834) 年紀伝博士を廃して,文章博士を2人とし,以後,紀伝と文章とは同義語となった。

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百科事典マイペディア 「紀伝道」の意味・わかりやすい解説

紀伝道【きでんどう】

律令制度の大学寮における四道(主要な4学科)の一つ。四道とは紀伝・明経(みょうぎょう)・明法(みょうぼう)・算。教科内容は《史記》《漢書》《文選(もんぜん)》などの中国の史書や詩文。文章(もんじょう)博士・文章生などから成る学科のため,のちに文章道の呼称が生じたが,正式名称ではない。明経道に代わり平安時代から特に重んじられ,学者の登竜門とされた。しかしのち文章博士は菅原・大江2氏の独占。
→関連項目菅原氏

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旺文社日本史事典 三訂版 「紀伝道」の解説

紀伝道
きでんどう

平安時代の大学寮の学科の一つ
紀伝体で書かれた中国の『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』などに『文選』・詩文を加えた学科で,平安中期に確立した。官吏登用試験の重要科目とされたので盛んに行われた。

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世界大百科事典(旧版)内の紀伝道の言及

【唐橋家】より

…しかし,この在名と次の在通との間でも,いったん家名が中断したらしい。代々紀伝道を家職とし,江戸時代の家禄は182石余である。幕末の在光は88卿列参に加わるなど政治的に働き,また1860年(万延1)祐宮(明治天皇)の親王宣下に当たり,名(睦仁)を勘進し,嗣子在綱は1884年(明治17)華族令の制定により子爵を授けられた。…

※「紀伝道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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