斎藤万吉(読み)さいとうまんきち

改訂新版 世界大百科事典 「斎藤万吉」の意味・わかりやすい解説

斎藤万吉 (さいとうまんきち)
生没年:1862-1914(文久2-大正3)

明治期の農業経営学の開拓者二本松藩福島県)の上士の長男戊辰戦争秩禄処分苦難を経,福島英語学校に学んだ。福島県令安場保和の書生となって上京駒場農学校を卒業後は福島県の農学校教諭となり,同時に福島県勧農場(農業試験場の前身)長を務めた。1890年に上京して独逸協会学校を修了,93年東大農科助教授,99年農事試験場に転じ,全国の農村を巡回して農家経済調査不朽業績を残した。日本農業の実態に立ち入り,明治中期以後の農家経済の変化や地域別の動きを明らかにした《実地経済農業指針》(1911)や《日本農業の経済的変遷》(遺稿,1918)の名著がある。
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朝日日本歴史人物事典 「斎藤万吉」の解説

斎藤万吉

没年:大正3.9.2(1914)
生年:文久2.3.6(1862.4.4)
明治大正期の農学者。二本松藩士直温(家禄250石)の長男として陸奥二本松北条谷(二本松市)に生まれる。明治10(1877)年上京,13年駒場農学校を卒業。帰郷して福島県郡山農学校助教授,同県農事試験場長などを歴任。23年再度上京して独逸協会学校に学ぶ。その後東京帝大農科大学乙科助教授を経て32年農商務省農事試験場技師となり種芸部長,報告課長を歴任。38年中央報徳会評議員。草鞋脚絆姿で各地の農業事情の実態調査に奔走していたが病気により53歳で急逝。その間,欧米農業の模倣を批判し,穀作経営を基幹にしてこれに集約経営(養蚕その他)を組み合わせ,小農経営を保護,育成することを説いた。わが国の農業経営学の創始者とされている。<著作>『実地経済農業指針』『農村経営指鍼』『農村の開発』『日本農業の経済的変遷』<参考文献>戸谷敏之「明治前期に於ける農業経営学の成立」(『農村研究』41号),野村浩士「斎藤万吉の農家経済調査」(『農業経済累年統計』3号)

(葉山禎作)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤万吉」の解説

斎藤万吉 さいとう-まんきち

1862-1914 明治-大正時代の農業経済学者。
文久2年3月6日生まれ。東京帝大助教授をへて,明治32年農商務省農事試験場技師。農家経済の実地調査に力をそそいだ。大正3年9月2日死去。53歳。陸奥(むつ)二本松(福島県)出身。駒場農学校卒。著作に「実地経済農業指針」「日本農業の経済的変遷」など。

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百科事典マイペディア 「斎藤万吉」の意味・わかりやすい解説

斎藤万吉【さいとうまんきち】

農業経営学の開拓者。岩代二本松(福島県)の生れ。駒場農学校卒業後,郷里の農学校等の教諭を経て,1890年上京して独逸協会学校に学ぶ。東大で農政学を講じ,のち農事試験場等に務める。全国農村を巡回し,実態に即した調査に基づき,農村経済の地域別動向や農家経済の変化等に関する不朽の業績を残した。

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367日誕生日大事典 「斎藤万吉」の解説

斎藤 万吉 (さいとう まんきち)

生年月日:1862年3月6日
明治時代の農学者。帝国大学助教授
1914年没

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