新シ町(読み)あたらしまち

日本歴史地名大系 「新シ町」の解説

新シ町
あたらしまち

[現在地名]鶴岡市大東町だいとうまち苗津町なえづまち神明町しんめいちよう

新シ町(現大東町・苗津町)御徒おかち町の南東にある。紙漉かみしき町の南裏にある東へ入った小路が南に折れ、苗津川岸に至る。この小路に沿った給人町。新し町・御料理人ごりようりにん町ともいい、延宝六年(一六七八)の城下絵図では八〇間、御徒・御持筒・御料理人など約一五軒の屋敷がみえる。元禄九年(一六九六)の城下大絵図では御料理人町一二九間、文政四年(一八二一)頃の城下絵図ではアタラシマチとある。元文二年(一七三七)南端天神てんじん千寿せんじゆ院抱地に総穏そうおん寺鉄門により衆徒学問所として庵が建てられ、破鏡はきよう庵と称した。


新シ町
あたらしまち

[現在地名]徳島市中通町なかとおりまち一―三丁目・両国本町りようごくほんちよう一丁目

通町の南に並行する東西の通りに沿った町人地うち町南端の通り筋である。「阿波志」によると古くはかた町と称し、寛永年中(一六二四―四四)には南は新町しんまち川を望む片側街で、河岸塁壁をめぐらせていたことから塀裏へうらとも称したという。前面には船着きの浜があった(異本阿波志)。だが塀裏の河岸はその後しだいに埋立てられ武家地となった(阿波志)。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によれば、新シ町筋は東西で、町数三町、家数一〇一軒。元禄四年(一六九一)御山下絵図では東から新シ町東一丁目・新シ町中ノ丁・新シ町西一丁目と続き、新町橋北詰木戸脇で西横にしよこ町に抜けていた。


新シ町
あたらしちよう

下京区新町ヨリ半町東筋七条上ル

東西に通る七条通烏丸上ル一筋目を挟む両側町であるが、北側の大部分は東本願寺境内。

平安京条坊では左京七条三坊二保五町南側の地。平安時代末には藤原実季の邸、七条水閣しちじようすいかくが付近にあった。「坊目誌」はその地を「拾芥抄」の「一京程図に拠る」として、七条大路の北、室町小路東としているが、刊本「拾芥抄」には描かれていない。この邸について「中右記」寛治三年(一〇八九)一二月六日条に「今日按察(実季)大納言七条水閣中建立一堂供養、以隆命法印為導師云々」とあり、邸中に堂を建立した記事がみえる。


新シ町
あたらしちよう

東山区松原通大和大路東入三丁目

松原通に位置。「京都府地誌」に「元建仁寺領ノ竹林菜田地。宝暦十年八月、開拓シテ、家敷地トス」とみえるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」、同再板本(明和刊か)増補分には町名をみず、同じ頃の洛中洛外絵図にも所見しない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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