新納忠之介(読み)ニイロ チュウノスケ

20世紀日本人名事典 「新納忠之介」の解説

新納 忠之介
ニイロ チュウノスケ

明治〜昭和期の彫刻家



生年
明治1年11月25日(1869年)

没年
昭和29(1954)年4月13日

出生地
鹿児島県鹿児島市新照院町

別名
号=古拙,幼名=惣太郎

学歴〔年〕
東京美術学校彫刻科〔明治27年〕卒

経歴
美術学校では高村光雲師事。明治28年母校助教授となり、31年奈良に設けられた美術院第2部(彫刻)主任、院展審査員。43年古社寺保存委員会、国宝保存委員会各委員となり、彫刻類の国宝指定審査に当たった。大正2年独立して美術院を経営、国宝修理専念、神仏像2041体、うち国宝1258点、工芸品70点を再生した。8年宮内省帝室博物館学芸委員となり、正倉院の調査研究に従事。昭和27年奈良国立博物館評議員。作品に「百済観音像」「観世音寺大黒天像」などがある。著書に「国宝神仏像等修理目録」。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新納忠之介」の解説

新納忠之介 にいろ-ちゅうのすけ

1869*-1954 明治-昭和時代の彫刻家。
明治元年11月25日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)卒業後,明治28年同校助教授。大正2年から再興日本美術院彫刻科を主宰法隆寺の百済観音像,東大寺の不空羂索観音像,三十三間堂の千躰千手観音像など二千体以上の神仏像の修復にたずさわり,現状維持を基本とする今日に引き継がれる修理法の基礎を築いた。古社寺保存会委員,国宝保存会委員などをつとめた。昭和29年4月13日死去。85歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。号は古拙。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新納忠之介」の意味・わかりやすい解説

新納忠之介
にいろちゅうのすけ

[生]明治1(1868).11.25. 鹿児島
[没]1954.4.13. 奈良
彫刻家。 1889年橋本雅邦に絵を学び,のち東京美術学校に入学して彫刻に転じた。 94年卒業後すぐ母校に勤め翌年同校助教授となったが,98年に辞職して日本美術院彫刻部会員となった。まもなく奈良に移り奈良美術院を主宰,仏像の模造を行うとともに古社寺保存委員会,国宝保存委員会の委員として古美術保存に努力,国宝仏像の修理のほとんどを指揮した。

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367日誕生日大事典 「新納忠之介」の解説

新納 忠之介 (にいろ ちゅうのすけ)

生年月日:1868年11月25日
明治時代-昭和時代の古社寺の国宝修理に専念、神仏像2000余体を再生。帝室博物館学芸委員などを歴任
1954年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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