橋本雅邦(読み)ハシモトガホウ

デジタル大辞泉 「橋本雅邦」の意味・読み・例文・類語

はしもと‐がほう〔‐ガハウ〕【橋本雅邦】

[1835~1908]日本画家。江戸の生まれ。本名、長郷。狩野派に学び、狩野芳崖とは同門。フェノロサ岡倉天心に認められ、新日本画の確立に尽くす。東京美術学校教授として横山大観下村観山菱田春草らを指導。日本美術院創立会員。作「白雲紅樹図」など。

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精選版 日本国語大辞典 「橋本雅邦」の意味・読み・例文・類語

はしもと‐がほう【橋本雅邦】

  1. 日本画家。江戸の人。名は長卿。初め狩野雅信に学ぶ。号、勝園雅邦。岡倉天心、フェノロサとともに明治の新日本画創造のために活躍。東京美術学校、日本美術院創立に尽くす。帝室技芸員代表作「龍虎図屏風」「白雲紅樹」。天保六~明治四一年(一八三五‐一九〇八

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百科事典マイペディア 「橋本雅邦」の意味・わかりやすい解説

橋本雅邦【はしもとがほう】

日本画家。江戸生れ,1847年狩野勝川院雅信に入門,勝園雅邦と号し,1854年勝川塾の塾頭となる。1882年,1884年に内国絵画共進会に出品,岡倉天心フェノロサに認められて東京美術学校創立に際し教授に任ぜられた。1890年第3回内国勧業博覧会審査官として《白雲紅樹》を出品し,1等妙技賞受賞。1898年天心の美術学校退職と行をともにし,日本美術院の創立に参加,主幹となり,横山大観菱田春草下村観山らを指導した。狩野派の伝統的手法による穏やかな写実的作風で,明治初〜中期の和洋折衷的新日本画の一典型となっている。作品は《秋景山水》《瀟湘八景》など。
→関連項目狩野芳崖川合玉堂橋口五葉

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改訂新版 世界大百科事典 「橋本雅邦」の意味・わかりやすい解説

橋本雅邦 (はしもとがほう)
生没年:1835-1908(天保6-明治41)

明治時代の日本画家。川越藩の絵師橋本晴園養邦の子として江戸木挽町の狩野邸内で生まれる。幼名千太郎。別号は十雁斎,酔月画生など。1847年(弘化4),13歳で狩野勝川院雅信に入門,勝園雅邦(ただくに)の号を与えられる。20歳のころには生涯の友狩野芳崖とともに塾頭にあげられ,勝川院門の竜虎と称された。1860年(万延1)独立を許されたが,明治維新の激動の中で生活に困窮し,中国向け輸出の扇子絵描きなどで糊口をしのぎ,世に出る機会はなかった。明治10年代に入って伝統美術復興の運動がおこり,彼は82年の農商務省主催第1回内国絵画共進会に出品,受賞して画壇に認められた。84年フェノロサ,岡倉天心らによって鑑画会が創立され,芳崖とともにこれに参加,形骸化しつつあった狩野派絵画にかろうじて流れていた〈気韻生動〉の気を復活するとともに,色彩光線の表現に新しい工夫を加えて新画風の開拓につとめた。88年東京美術学校の創立とともに最初の日本画教授となり,後進の指導にあたるが,98年には天心に従い野に下り,日本美術院の創立に参画,その主幹となる。ときには後進の菱田春草,横山大観らの朦朧(もうろう)調の長所をとりいれ,また晩年琳派の手法を試みるなど,近代日本画へのなかだちを果たした。代表作に,美術学校時代の《白雲紅樹》《竜虎図屛風》などがある。写実よりも心もちを第一義とした画論も伝わり,狩野派最後の巨匠といわれる。
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朝日日本歴史人物事典 「橋本雅邦」の解説

橋本雅邦

没年:明治41.1.13(1908)
生年:天保6.7.27(1835.8.21)
明治期の日本画家。江戸木挽町の狩野勝川院邸内に,川越藩御用絵師橋本晴園の子として生まれる。幼名千太郎のち長卿。弘化3(1846)年狩野晴川院養信に入門,生涯の友狩野芳崖とは同日の入門であった。まもなく養信が没したため狩野勝川院雅信に師事,芳崖と共に勝川門の二神足と称された。安政1(1854)年塾頭となったのち万延1(1860)年独立する。明治維新後,明治4(1871)年から19年まで海軍兵学寮に出仕,ウィーン万博出品の日本全国地図などを制作する一方,明治初年には「水雷命中」(東京国立博物館蔵)などの油絵も描いている。またフェノロサにより17年に組織された鑑画会に参加,新日本画創作運動の中心作家のひとりとして活躍した。こうした鑑画会関連作品のいくつかが,現在ボストン美術館やフィラデルフィア美術館,フリア美術館に収蔵されている。またフェノロサと岡倉天心によって設立された東京美術学校(東京芸大)では,21年雇,22年教諭,23年教授となったが,31年東京美術学校騒動に際して同校を辞職。日本美術院創立では主幹となり,以後,野に下った天心を支え続けた。この間,23年帝室技芸員となり,内外の博覧会で常に高賞を受賞。日本画新派の作家としてだけでなく,画壇の大家としての地位を築いている。門下に川合玉堂ら多くの俊秀を育成,教育者としても優れた資質を発揮したほか,古社寺保存会委員を務めるなど,古美術保護にも尽力した。<参考文献>梅沢和軒『芳崖と雅邦』

(佐藤道信)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「橋本雅邦」の意味・わかりやすい解説

橋本雅邦
はしもとがほう
(1835―1908)

明治の日本画家。江戸木挽町(こびきちょう)の狩野(かのう)家邸内で川越(かわごえ)藩の絵師橋本晴園養邦(せいえんおさくに)の子として生まれる。幼名千太郎、本名は長郷。初め父に手ほどきを受けたが、1847年(弘化4)に狩野勝川院雅信(かのうしょうせんいんただのぶ)に入門。同門に狩野芳崖(ほうがい)がおり、2人は深く交わり画技を競った。60年(万延1)に独立を許されたが、幕末維新の混乱に際会して困窮を極めた。82年(明治15)第1回内国絵画共進会で受賞して名を知られ、フェノロサ、岡倉天心の知遇を得て芳崖とともに鑑画会に加わり、日本画革新の運動を進めることになった。東京美術学校設立にも力を尽くし、89年開校とともに教師陣の中心として後進の育成にあたり、同年帝室技芸員となる。横山大観、下村観山、菱田(ひしだ)春草らはその門下である。98年天心に殉じて美術学校を退き、日本美術院創立に加わり、その主幹となった。代表作『白雲紅樹』は1890年の第3回内国勧業博覧会への出品作。ほかに『月夜山水』『龍虎(りゅうこ)』などが著名。

[原田 実]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橋本雅邦」の意味・わかりやすい解説

橋本雅邦
はしもとがほう

[生]天保6(1835).7.27. 江戸
[没]1908.1.13. 東京
日本画家。幼名は千太郎,のち長郷。川越藩御用絵師橋本晴園の子で,江戸木挽町狩野家の邸内で生れ,幼時から父の手ほどきを受けた。弘化4 (1847) 年狩野雅信に学んで勝園雅邦と号し,同門の狩野芳崖とともに四天王の一人に数えられ塾頭をつとめた。 1882年の第1回,84年の第2回内国絵画共進会展で世の注目を浴びる。 E.フェノロサ,岡倉天心の鑑画会に参加,日本美術院の設立にも加わって新日本画形成に努力し,横山大観,菱田春草,下村観山,川合玉堂らを育てた。文部省絵画取調所員,東京美術学校教授,帝室技芸員。主要作品『月夜山水』 (89,東京芸術大学) ,『白雲紅樹図』 (90,同) ,『竜虎図屏風』 (95,静嘉堂文庫,重文) ,『春秋山水図』 (1901,宮内庁三の丸尚蔵館) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橋本雅邦」の解説

橋本雅邦 はしもと-がほう

1835-1908 明治時代の日本画家。
天保(てんぽう)6年7月27日生まれ。狩野雅信(かのう-ただのぶ)に入門。フェノロサ,岡倉天心らの鑑画会に参加し,狩野芳崖(ほうがい)らと新画風を開拓。明治23年東京美術学校(現東京芸大)初の日本画教授となる。31年辞職して天心とともに日本美術院を創立した。明治41年1月13日死去。74歳。江戸出身。幼名は千太郎,のち長卿。作品に「白雲紅樹図」「竜虎図屏風(びょうぶ)」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「橋本雅邦」の解説

橋本雅邦
はしもとがほう

1835.7.27~1908.1.13

幕末~明治期の日本画家。江戸木挽(こびき)町の狩野家邸内で生まれる。父は川越藩絵師の橋本晴園養邦。10歳頃狩野雅信(ただのぶ)に師事。維新後,海軍兵学寮に出仕した。鑑画会に参加,同門だった狩野芳崖(ほうがい)とともに,狩野派に洋画風の表現をとりいれるなど,新日本画の創作に努めた。1890年(明治23)東京美術学校教授に就任。98年岡倉天心らと日本美術院を創立,主幹となる。帝室技芸員。

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旺文社日本史事典 三訂版 「橋本雅邦」の解説

橋本雅邦
はしもとがほう

1835〜1908
明治時代の日本画家
江戸の人。狩野雅信に絵を学ぶ。フェノロサ・岡倉天心らと東京美術学校創立に参加し教授となり,のち日本美術院をおこした。穏健で保守的な作風だが気迫は充実している。代表作に『白雲紅樹図』『竜虎図屛風』など。

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世界大百科事典(旧版)内の橋本雅邦の言及

【日本美術院】より

…日本画の団体。1898年東京美術学校に校長岡倉天心を排斥する騒動が起こると天心は職を辞し,同年秋,東京の谷中に日本美術院を設立し,主幹に橋本雅邦を据え,自分に従って美術学校を退いた作家ら26名を正員とした。〈美術院〉の称は大学における大学院を意識したものという。…

※「橋本雅邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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