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明治時代の日本画家。川越藩の絵師橋本晴園養邦の子として江戸木挽町の狩野邸内で生まれる。幼名千太郎。別号は十雁斎,酔月画生など。1847年(弘化4),13歳で狩野勝川院雅信に入門,勝園雅邦(ただくに)の号を与えられる。20歳のころには生涯の友狩野芳崖とともに塾頭にあげられ,勝川院門の竜虎と称された。1860年(万延1)独立を許されたが,明治維新の激動の中で生活に困窮し,中国向け輸出の扇子絵描きなどで糊口をしのぎ,世に出る機会はなかった。明治10年代に入って伝統美術復興の運動がおこり,彼は82年の農商務省主催第1回内国絵画共進会に出品,受賞して画壇に認められた。84年フェノロサ,岡倉天心らによって鑑画会が創立され,芳崖とともにこれに参加,形骸化しつつあった狩野派絵画にかろうじて流れていた〈気韻生動〉の気を復活するとともに,色彩や光線の表現に新しい工夫を加えて新画風の開拓につとめた。88年東京美術学校の創立とともに最初の日本画教授となり,後進の指導にあたるが,98年には天心に従い野に下り,日本美術院の創立に参画,その主幹となる。ときには後進の菱田春草,横山大観らの朦朧(もうろう)調の長所をとりいれ,また晩年は琳派の手法を試みるなど,近代日本画へのなかだちを果たした。代表作に,美術学校時代の《白雲紅樹》《竜虎図屛風》などがある。写実よりも心もちを第一義とした画論も伝わり,狩野派最後の巨匠といわれる。
執筆者:佐々木 直比古
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(佐藤道信)
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明治の日本画家。江戸木挽町(こびきちょう)の狩野(かのう)家邸内で川越(かわごえ)藩の絵師橋本晴園養邦(せいえんおさくに)の子として生まれる。幼名千太郎、本名は長郷。初め父に手ほどきを受けたが、1847年(弘化4)に狩野勝川院雅信(かのうしょうせんいんただのぶ)に入門。同門に狩野芳崖(ほうがい)がおり、2人は深く交わり画技を競った。60年(万延1)に独立を許されたが、幕末維新の混乱に際会して困窮を極めた。82年(明治15)第1回内国絵画共進会で受賞して名を知られ、フェノロサ、岡倉天心の知遇を得て芳崖とともに鑑画会に加わり、日本画革新の運動を進めることになった。東京美術学校設立にも力を尽くし、89年開校とともに教師陣の中心として後進の育成にあたり、同年帝室技芸員となる。横山大観、下村観山、菱田(ひしだ)春草らはその門下である。98年天心に殉じて美術学校を退き、日本美術院創立に加わり、その主幹となった。代表作『白雲紅樹』は1890年の第3回内国勧業博覧会への出品作。ほかに『月夜山水』『龍虎(りゅうこ)』などが著名。
[原田 実]
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1835.7.27~1908.1.13
幕末~明治期の日本画家。江戸木挽(こびき)町の狩野家邸内で生まれる。父は川越藩絵師の橋本晴園養邦。10歳頃狩野雅信(ただのぶ)に師事。維新後,海軍兵学寮に出仕した。鑑画会に参加,同門だった狩野芳崖(ほうがい)とともに,狩野派に洋画風の表現をとりいれるなど,新日本画の創作に努めた。1890年(明治23)東京美術学校教授に就任。98年岡倉天心らと日本美術院を創立,主幹となる。帝室技芸員。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…日本画の団体。1898年東京美術学校に校長岡倉天心を排斥する騒動が起こると天心は職を辞し,同年秋,東京の谷中に日本美術院を設立し,主幹に橋本雅邦を据え,自分に従って美術学校を退いた作家ら26名を正員とした。〈美術院〉の称は大学における大学院を意識したものという。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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