日出城跡(読み)ひじじようあと

日本歴史地名大系 「日出城跡」の解説

日出城跡
ひじじようあと

[現在地名]日出町日出

慶長六年(一六〇一)日出に入封した木下氏の居城。別府湾に臨む崖上にある。当時青柳あおやぎ(仁王村の小村)とよばれていた地域に築城されたため、当初は青柳城とよばれていたが、三代藩主木下俊長が「淮南子」のなかの「日は暘谷ようこくより出でて咸池に浴す」の句を日出の地名に比して暘谷城と称して以来、その名が雅名となった。

〔縄張りと規模〕

慶長六年四月、播州姫路ひめじ(現兵庫県姫路市)にあった木下延俊は、速見郡内の三万石を給された。木下延俊は家臣の中村甚左衛門・山田善右衛門を派遣して領地の受取りを行わせ、延俊は同年八月に日出に入国した。当初は藤原ふじわら村に仮の居館を造り入居、卜して日出に築城することに決定し工事に取掛った。縄張りには延俊夫人加賀の兄の細川忠興があたった。石垣の建造は細川家臣の穴生理右衛門が奉行した。翌七年八月、ほぼ城が完成して仮居館を出て入城した。城地は青柳村のほか同じく仁王におう村の小村である赤坂あかさか村・浮津うきつ村に及び、青柳村の東には荷原にないばるという野があったという(「木下家系図附言纂」日出町立万里図書館)。青柳村の中央に小岬があり、この西は青柳湊という中世からの湊で、東には金井田かないだ川の流入する日出の入江があった。この小岬を中心に本丸を築き、ほかに二の丸、二の丸の東に三の丸を築き、その北部に外郭(城下町)を建設した。外郭の旧赤坂村と城外のほり村との谷間に堤防を築き、溜池を作って外堀とした。堤防上は道路とし、藤原口門を設けた。城の西には八日市口ようかいちぐち門を設けて外郭への出入口とした。外郭から二の丸へは外大手門、三の丸へは三の丸口門を設けた。三の丸から二の丸へは中の門を設けている。

本丸の北部には東西に大手の道路が通り、ほぼ中央に大手門が東に向いて建つ。大手門の東には横矢角落があり、その北に隅櫓がある。東の城壁のほぼ中央に搦手があり、南に向かって門が建てられていた。搦手の南の上には裏門櫓がある。南東端の枡形の上には三層の天守閣が聳え、この天守閣の下の石垣が五丈四尺(約一六・三メートル)といちばん高い。天守閣の一階は一二〇畳敷、二階は四〇畳、三階は二〇畳であったと記録されている(関文書)。天守閣より西に海手の門があり、門の上は望海ぼうかい楼または久頓きゆうとん櫓ともいう。この望海楼の西には横矢斜になって多門櫓があり、さらに北には月見櫓があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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