日本の大学改革(読み)にほんのだいがくかいかく

大学事典 「日本の大学改革」の解説

日本の大学改革
にほんのだいがくかいかく

日本の大学は,第2次世界大戦中に大久保利謙が叙述したように「上代の大学」,「近世の封建大学」,「近代的大学」と推移してきた。明治初期に作られた近代的大学(近代大学)は,大正期の改革で一応の形を整え,敗戦後の改革で現在の大学の骨格が形成された。その後も何度かの改革を経験しているが,大きな枠組みに変化のない,調整的なものにとどまっている。

 日本に大学という名前の学校が登場したのは,上代とされる奈良時代であった。それは日本が固有の大和王朝の仕組みから,唐制を取り入れてのいわゆる律令制国家を形成する過程であり,律令国家の経営をする上で必要となる官僚の養成機関として大学(寮)が作られた。そして,その崩壊後の紆余曲折の末に形成された封建社会では,江戸幕府の官学として昌平黌が設けられ,林家が代々大学頭を世襲した。各藩もそれに倣い,藩校を大学と称して開設した。

 こうした上代と封建2段階の大学の間にはかなりの違いがあるものの,人類史の大枠でみると,農業牧畜社会での大学の存在であり,伝統大学ということができる。そして,西欧がそれまでにない社会である工業(産業)社会に突入すると,その圧倒的な生産力と軍事力の前に地球上の他の地域はその植民地あるいは半植民地になることを余儀なくされた。それに対して,唯一の例外といっていいのが日本で,植民地化の危機のもとで西欧に倣った諸制度を導入し,工業化社会への転換を図って自ら近代化の途を進んだ。日本の近代大学(日本)はその過程で生まれ,その推移とともに改革を迫られ,行ってきた。

[日本の近代大学]

近代大学を工業社会に適応した大学と定義するならば,日本における最初の近代大学は,1886年(明治19)設立の帝国大学である。それが法科,医科文科理科の欧州の近代大学(ユニバーシティ)に倣った分科大学と,当時の欧州ではユニバーシティ以外の高等教育機関とされていた工業と農業(1890年~)分野の分科大学で構成されていたことに,大学の創設が,農業社会を統治する能力としての四書五経に精通した人材の養成機関たる封建大学から,工業社会に適応した近代大学への大改革であったことがうかがい知れる。

 そして,工業化が進み,地域や民衆の力が増してくると,帝国大学,すなわち官立総合大学のみを大学としておくことは合理性を欠くようになり,いわゆる「学制改革問題」が発生した。その解決として行われたのが,大正期の大改革であり,1918年(大正7)発布の大学令は帝国大学以外の官立,北海道および府県立の公立,そして私立の大学の存在を認めた。また分野(学部)に経済学,商学を加えた。これによって,それまで工業化の進展過程で生まれてきた専門学校の多くが,大学へと転換をとげ,それらを取り込んだ日本の大学は,さらに工業社会に適合した近代的大学へと進化した。

[戦後の改革]

そして,迎えたのが第2次世界大戦の敗戦である。大学令が廃され,学校教育法に基づく大学制度が発足した。それが戦後の大改革であり,大学を民主主義の養成場にして,より地域や民衆に近いものにするという発想から,アメリカモデルの改革が断行された。旧来の修業年限6年の小学校の上に,男子のみが学べる5年の中学校,3年の高等学校,3年の大学という仕組みは変更され,男女の共学を許し,3年の新制中学,3年の新制高校,そして旧制高校で高等普通教育とされていた部分を一般教育としてその前期に含み込む4年の新制大学の仕組みが誕生した。そして旧制大学がこの形態に組み直されるとともに,旧制の専門学校,高等学校,師範学校が新制大学として「大学昇格」を果たした。大都市圏と北海道等を除き,一府県一国立大学の原則が示され,今まで大学がなかった県にも国立大学(日本)が生まれた。ただし,存在した専門学校や師範学校をそのまま大学としたことから,キャンパスが分かれた,いわゆるたこ足大学としての出発であった。

 その後に行われたうちの最初の大学改革は,1960年代以前の,主権は部分回復したものの日本の工業力の回復に悲観的な政府によって進められた,旧制復帰の傾向を持つ改革で,大学の数を減らし,旧制専門学校的な学校を復活させようとするものであった。しかし,朝鮮戦争を契機にアメリカの占領政策が変わり,政府が所得倍増計画に象徴されるように日本の工業力の育成に積極的になると,日本の大学はむしろ不足気味になり,1960年代には,新制大学はさまざまな軋みをともないながらも定着し,発展期を迎えた。私立大学(日本)が拡大して学生のマジョリティを受け入れるようになり,短期大学が女子の高等教育需要に適合するものとして興隆し,国立大学のたこ足状態の解消も始まった。その過程で旧制専門学校の地位を期待されながら創設された高等専門学校(日本)はほとんどが国立で,工業と商船という極めて限られた形で存在するのみとなった。

 この展開は,しっかりとした全体像をもった大学政策の結果ではなかったこともあり,1960年代末には全国的な大学紛争の勃発という事態に直面した。また工業化も,計画性がもてる重工業中心の時代から,脱工業化,情報化,サービス産業化と言われる新段階に突入し,新興の産業部門への対応,国際化,生涯教育体系への移行が大学改革の主要な課題となってきた。その中で,大学の組織形態を一新する新構想大学群(日本)がつくられ,私立大学への経常費補助が始まり,進学圧力の一部は新制の専門学校が担うようになった。紛争を封じこめる狙いもあって,大学の大都市圏での拡張は制限され,郊外移転や地方設置が推進された。

[近年の大学改革]

そんな中で,1991年(平成3)の大学設置基準の大綱化と呼ばれる大学の教育内容の規制を緩める処置をはじめとする「大学改革」が行われた。その後,経済のグローバル化,18歳人口の減少という局面を迎え,21世紀に入り,国立大学の法人化,法科大学院の創設,新たな評価制度の導入などの「大改革」が行われている。これらの改革は,どちらも明治期と戦後のそれにつづく第3の「大改革」と銘打って進められたが,これまで見てきたように,そのレベルのものでないことは明らかである。そして,改革と称される政策が,ほぼ毎年のように打ち出され,「改革疲れ」が言われる状態さえ現出している。

 こうした近年の大学改革の特徴は,現在の大学の基礎となっている戦後改革による枠組みの意味を十分に解することなく,直面する課題に対して対処療法的に,そのすべてを法令化し,大学自身の自律性によらず権力による強制によって行おうとしている点にある。そのことは教育課程における目標の明示にしろ,キャリア教育の実施にしろ,ほとんどの改革が,文部科学大臣の下す命令である設置基準に盛り込まれることによって,推進されていることに如実に示されている。いま日本の大学改革は,日本社会の行く末の人類史的な展望のもとで,現在を規定している枠組みの客観的な認識と意義づけを得ての,大学自身の主体性に基づく改革へと方向転換が求められている。
著者: 舘 昭

参考文献: 大久保利謙『日本の大学』創元社,1943.

参考文献: 舘昭『大学改革―日本とアメリカ』玉川大学出版会,1997.

参考文献: 舘昭『原点に立ち返っての大学改革』東信堂,2006.

参考文献: 舘昭『原理原則を踏まえた大学改革を』東信堂,2013.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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