日高村(読み)ひだかむら

日本歴史地名大系 「日高村」の解説

日高村
ひだかむら

昭和一八年(一九四三)から同三七年までの村で、右左府うさつぷ村が改称して成立。字名と村名の改称については右左府村時代の昭和一七年から協議され、字名は同一八年二月の北海道庁告示で字日高・字千栄ちさか・字富岡とみおか・字三岩みついわの四字とすることとなり、同月施行、同年四月の日高村への改称後も継承された。村名は日高山脈の山懐にある地形にちなむ。同年の戸口は五〇二戸・三千一八人(道庁統計書)


日高村
ひだかむら

面積:四四・五〇平方キロ

高岡郡東端に位置し、日下くさか川流域の低湿地帯と北方仁淀によど川右岸の山地からなり、東から北にかけては吾川あがわ伊野いの町、西は越知おち町・佐川さかわ町、南は土佐市と接する。国道三三号および国鉄土讃本線が日下川に沿って村内を東西貫通、産業は農業を主とする。本郷ほんごうには金明孟宗竹が生える竹林がある。大正末期頃に偶然発生したものであるがその後増え続け、現在県の天然記念物に指定。


日高村
ひだかむら

[現在地名]高崎市日高町

東南流する井野いの川左岸一帯に広がる沖積平野の中央にある。東方は新保田中しんぼたなか村、南は新保・貝沢かいざわの二村。群馬郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ高崎藩領。寛文郷帳では田方四四一石余・畑方一七三石余。元禄一五年(一七〇二)高崎宿の加助郷と定められたが、寛延二年(一七四九)前橋藩領になったためはずされた(更正高崎旧事記)。なお、貞享四年(一六八七)上下に分れ、その後さらに日高新田村が分村したと伝え(郡村誌)、正徳年間(一七一一―一六)植野堰最初掘立御普請書(武井文書)には三日高村、文政一二年(一八二九)前橋藩諸職人元帳(星野文書)には下日高村、天保七年(一八三六)「関家御用日記」(「下川淵村誌」所収)には上日高村がみえる。


日高村
ひだかむら

[現在地名]弥栄村高内たかうち

門田かどた村の北および西に位置し、西は西河内にしごうち村。郷帳類では長安ながやす村に含まれた。中世は永安ながやす別符のうちで、嘉暦元年(一三二六)一二月一〇日の石見永安別符以下地頭職分文(吉川家文書)に日高分四町九段とみえる。近世は古高一五四石、寛永一四年(一六三七)の検地高二八一石余。


日高村
ひだかむら

[現在地名]かつらぎ町日高

御所ごせ村南に位置し、天正一九年(一五九一)一〇月日付の高野山寺領注文(勧学院文書)に「四村内」として「ひたか」が記され、中世は高野山領六箇七ろつかしち郷の四村よむらに属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日高村」の意味・わかりやすい解説

日高〔村〕
ひだか

高知県中部,高知平野の西端にある村。 1954年日下,能津の2村と加茂村の一部が合体して発足。仁淀川中流部右岸の氾濫原と支流日下川の谷を占め,米作と畑作が行われる。山地には石灰岩が広く分布し,猿田鍾乳洞がある。下分の小村神社には古墳時代から伝世の金銅荘環頭大刀 (国宝) が保存される。 JR土讃線と国道 33号線が並走。面積 44.85km2。人口 4812(2020)。

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