日米繊維交渉(読み)にちべいせんいこうしょう

改訂新版 世界大百科事典 「日米繊維交渉」の意味・わかりやすい解説

日米繊維交渉 (にちべいせんいこうしょう)

この言葉は,日本の毛・化合繊製品の対米輸出規制をめぐる1969-71年にわたる日米交渉を特定して使われる場合が多い。それ以前の綿製品の対米輸出規制をめぐる交渉が,長引いても数ヵ月以内に事務レベルで決着していたのに比べ,このときの毛・化合繊製品をめぐる交渉は政治問題化して2年半も紛糾し,第2次大戦後の日米関係における最悪の危機的状態をもたらしたといわれている。この問題は1968年のアメリカ共和党の大統領候補ニクソンの選挙公約に端を発し,69年春,ニクソン新政権下に出された日本に対する厳しい自主規制要求に始まる。それに対し,佐藤栄作首相が〈核抜き沖縄返還〉の交換条件として,アメリカ側の要求に沿った解決を〈密約沖縄密約)〉,これが日本政府内の意見調整を困難にし,さらに交渉経路の混乱分散が日米間に不必要な誤解をもたらすこととなる。70年3月にケンドール案のような妥協案がアメリカ側から出され,6月に宮沢喜一通産相とスタンズ商務長官の直接会談がもたれ,10月には佐藤首相がニクソン大統領と2度目の会談をして問題解決を再び約束するが,結局その後の政府間交渉は暗礁に乗り上げてしまった。71年3月,アメリカ下院歳入委員長ミルズの支持を得て日本の業界がみずからの自主規制案を発表するが,これがかえって逆効果となり〈内政干渉〉としてアメリカ政府を怒らせてしまう。同年秋にはアメリカ側から,条件をのまなければ〈対敵取引法〉を発動して一方的に輸入規制をするという最後通牒が日本側に突きつけられる。結局,日本政府がそれをのむ形で両国間に合意が成立し,首脳会談2回,閣僚レベル会談2回,公式交渉9回にわたったこの交渉は,71年10月15日の仮調印をもってようやく終止符が打たれた(正式調印は1972年1月)。

 この背景には,1960年代後半以降の国際政治経済環境の変化がある。それまでアメリカは,冷戦体制下の西側の盟主として同盟国の結束を図るために自国の市場をできるだけ開放し,同盟国の経済発展を助けてきた。しかし,60年代後半に東西の緊張関係が大幅に緩和されると同時に国際経済におけるアメリカの相対的地位が低下し,日本などの同盟国との経済摩擦を大目に見てやろうという政治的誘因はあっても,そうする経済的余裕を失ってしまったといえる。一方,日本側の姿勢の変化をみると,日米繊維交渉のころよりは,国際的相互依存論理をかなり理解するようになり,狭い〈国益〉を追求するかたくなな態度は避けるようになってきてはいる。しかし,年々拡大していく日米貿易不均衡が引金となって,アメリカが日本側に農産物,高度技術,資本・金融などの市場開放を要求するという形での貿易摩擦(これには日米貿易摩擦だけでなく日欧貿易摩擦もある)が多発してきており,それに対する日本の外圧依存型の受身の姿勢はいまだ変わっていない。アメリカが以前のように自由貿易体制維持のための強力な指導力を発揮できなくなっている今日,西側第2の経済大国となった日本は中・長期的展望に立って,国内的要請と対外的要請との間のバランスをとりつつ,自由化政策を主体的に推進していく必要がある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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