改訂新版 世界大百科事典 「イ族」の意味・わかりやすい解説
イ(彝)族 (イぞく)
Yí zú
中国西南部に広く分布する少数民族の一つ。人口約658万(1990)。雲南省をはじめ四川,貴州各省および広西チワン族自治区の山岳高地に居住する農牧系の民族。現在主要な分布地区としては,涼山(四川),楚雄(雲南),紅河(雲南)の各イ族自治州とその他に10余のイ族自治県がある。なかでも涼山地区は一大聚居地であり,周囲の民族との接触も少なく比較的純粋な姿を保っている。イ(彝)族という名称は,中華人民共和国成立後採用された統一民族名で,かつて漢族から羅羅,倮儸,夷家,蛮子などとよばれていた。彼らの間では,ロロLoloと自称する集団(主に雲南西部)とノスNosu(黒い人の意。主に四川・貴州・雲南北西)と自称する集団に大別されるが,地域によって自称が異なる。言語はチベット・ビルマ語派のうちのロロ・ビルマ語群,イ語支に属し,方言の地域的偏差も大きい。
イ族の原郷はチベット東方の山岳にあり,広義の羌(きよう)族の分派と考えられる。古くは漢代に現れた西南夷にその歴史的系譜をたどりうるが,3世紀以降その末裔は四川雲南地方に南下し,各地に分岐した。北方から徐々に南下したこれらイ語系種族集団(烏蛮(うばん))は,それまでその地に先住し勢力を有していた白蛮(広義のタイ系諸族)と対立抗争を繰り返した。なかでも白蛮系の高い文化の影響を受けた烏蛮系の蒙舎詔蒙氏が台頭して先住の白蛮系大族爨(さん)氏をおさえた。738年に皮羅閣が南詔王国を建てるに及んでさらに強大となった。その結果,支配的な黒羅羅Nosuとそれに服する白羅羅(烏蛮に服した白蛮)のあいだに社会階層が生じ,その社会には種族の複合的様相を見ることができる。その後烏蛮は白蛮系大理国統治下に三十七蛮部として史書に現れ,各地に拠った部酋は,元代以降中国政府よりいわゆる〈土司(土官)〉に任ぜられた。この土司(首長)支配は,階層化したイ族社会に深く根付いたが,一方では権力を集中する土司が中央の命令に従わず,自己の支配権を強固にした。とくに山岳地帯に住む黒羅羅,たとえば烏蒙山(雲南省北西)や涼山(四川省南部)は一大勢力地区であった。しかし清代の雍正期(1723-35)以降,烏蒙山の諸土司は清朝の土司支配に強く抵抗を続けたが,ほとんどは清朝の支配をうけいれた。涼山に逃げ込んだ涼山イ族のみは,最後まで清朝の支配を拒否してみずからの勢力を保った。
イ族は一般に焼畑耕作を行い,耐寒性に富む植物である蕎麦(そば)や,燕麦を主要な作物とし,トウモロコシやバレイショ,豆なども多く栽培する。主食は一般に米は好まず,トウモロコシやいった麦粉を水で練って食べるなど,チベット系の食習慣に近い。また家畜の牛,羊,豚,鶏は宗教的犠牲として飼う。社会は一般に氏族単位の村落をつくり,父系親族集団の発達が顕著である。とくに部族的・氏族的結合が強い涼山イ族では,始祖から父子連名でつながる系譜を紐帯とする〈家支〉(イ語ではチュウシという)とよばれる父系氏族集団が政治・経済・社会などの基本単位として発達した。この家支内部には選ばれた数人の頭人がおり統率を行うが,非常時には家支全体の会議が設けられる。また涼山イ族社会では,黒彝(貴族),白彝,奴隷の社会階層の分化がいちじるしく互いに通婚は禁じられていた。婚姻形態は,四川・雲南に分布するチベット系諸民族と同様に,族外婚での交差いとこ婚が一般的であるが,地域(とくに雲南)によって偏差がある。結婚後も女性は実家で生活をし,初子が誕生してはじめて夫の家で夫と生活を共にする。家族制は小家族で女性の地位は高い。平屋根木造矩形の家屋に住み,3間の部屋のある石木の土間式で,とくに生活の中心の場は〈鍋荘〉とよばれるいろりである。
宗教と信仰は,万物有霊の観念に基づく祖先祭祀が基本である。それをつかさどる者はピムpi-muとよばれる祭司で,あらゆるイ語経典類に通暁し,とくに死体を火葬あるいは納棺土葬にした後,死霊の他界誘導を行う。また13年(または26年)に1度同族をあつめて挙行される祭祖〈作斎〉はもっとも重要な祭祀儀礼である。このピム以外にスニエsu-niehという巫師もおり,経典は解せずただ羊皮鼓をもって跳舞し,邪鬼を払いのけるという。イ族の伝統的節(祭)日は各地により千差万別であるが,その基本は年節時の祖先祭と播種,収穫の予祝祭である。この予祝祭では〈火把節(たいまつまつり)〉がもっとも有名で,イ族共同の伝統祝祭日である。また雲南の弥勒・路南や巍山地域の〈密枝節〉なども知られている。これら祭日・族祖の由来など豊富な口誦伝承も保持され,語り伝えられている。
→イ語
執筆者:栗原 悟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報