明専寺
みようせんじ
西本願寺末、終北山と号す。開基は平国香六代の後胤若狭守経俊の第五子で、三河国加茂郡月原に明専院を開いた経時と伝える。初め天台宗に属したが、貞永元年(一二三二)、矢矧宿柳の道場で親鸞から他力本願の法を聴き弟子となり、法名永円を与えられた。文明一七年(一四八五)、七世念西は、明専院に巡錫した蓮如(兼寿)から明専寺の寺号を許されている。元亀元年(一五七〇)、石山一向一揆には一一世光源が信徒を率いて参加し、顕如を助けて織田信長軍と戦ったが、徳川家康が信長の要求で念仏宗を停止したので、天正五年(一五七七)、信徒を引き具して、三河を去り祖師ゆかりの地越後国に法難を避けようとした。途中しばらく信濃国更科郡康楽寺(現長野市塩崎)に足を留めたが、越後国頸城郡国分の近く習禅寺村(現新潟県上越市)に移り、天正六年六月、上杉景勝の保護を受けた(「上杉景勝老臣等連署状」明専寺蔵)。
明専寺
みようせんじ
[現在地名]熊本市坪井一丁目
もとの新坪井堀端町の東側にあり、青龍山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。「国誌」によれば、慶長一八年(一六一三)慶念の開基で、寺地は口一五間・入一五間。元禄(一六八八―一七〇四)の頃門内に柳の木があったため俗に柳寺というとある。七世慶泰筆記の明専寺小史(当寺蔵)によれば、開基慶念は加藤清正の家臣であった「山鹿一松」の城主荒木因幡の子で、慶長八年出家、諸国修行のうえ同一三年帰国、同一八年准如の許しを得て山鹿郡御宇田郷(現鹿本郡鹿本町)に明専寺を建立。元和六年(一六二〇)加藤忠広に願出て熊本に移建したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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