明泉寺
みようせんじ
[現在地名]穴水町明千寺
明千寺集落西端の台地上にあり、白雉山と号し、高野山真言宗、本尊千手観音。白雉三年(六五二)の建立と伝え、その後一時中絶したが、源頼朝により再興されたという。中世には明千寺とも記された。享禄元年(一五二八)一〇月五日、当寺の住持であった成身院宗歓は、当代和学の第一人者三条西実隆に懇望して、「明千寺勧進帳」の外題に揮亳をうけている(実隆公記)。宗歓は大永五年(一五二五)から天文一二年(一五四三)にかけて、能登守護畠山義総の使僧として、度々実隆のもとを訪れており、自らも実隆に色紙伊呂波や古今集外題の書写を求め、大永三年九月二一日の能登七尾の招月庵や、同五年七月二八日の七尾城内で行われた連歌会に列席するなど、文芸に造詣の深い傑僧であった(実隆公記、「賦何路連歌」明治大学蔵、「賦何人連歌」本岡家蔵)。
明泉寺
みようせんじ
[現在地名]佐久市香坂 西地
天台宗比叡山直末、山号は閼伽流山、本尊千手観音。香坂村の北背に直立する岩山閼伽流山下にある。寺伝によれば天長三年(八二六)円仁(慈覚大師)の開創で、しばらく廃滅していたが、天正年間(一五七三―九二)武田勝頼が再建、これも焼失したという。度重なる災厄でわずかに残った旧本尊の光背飛天の一部は、鎌倉時代の作風を残し、本尊は丈六であったと推定され、庇護者であった香坂氏の力がうかがわれる(北佐久郡志)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
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