春山村(読み)はるやまむら

日本歴史地名大系 「春山村」の解説

春山村
はるやまむら

[現在地名]松元町春山

上谷口かみたにぐち村の南東に位置し、北部は標高一九〇メートル前後の台地、南部は山地に立地する。西流する下谷口川支流の森園もりぞの川や東流する永田ながた川支流の低地に水田が開け、集落は北部台地に偏在する。中世には伊集いじゆう院に含まれた。島津立久が定め、永正一一年(一五一四)一二月一五日に再確認された伊集院諏訪御祭礼年四回数番帳(伊集院由緒記)に六番として「春山名」がみえ、下谷口村諏訪明神(現伊集院町南方神社)の祭礼に奉仕していた。天正二年(一五七四)九月二九日、島津義久上井覚兼を伴って春山を訪れ、翌日狩を行っている(上井覚兼日記)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高二五三石余。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高三四一石余。旧高旧領取調帳では高五〇七石余。

桟敷原さしきばる一帯には春山野と称する鹿児島藩の牧場があり、また春山馬場辺りから南東部山岳地帯には春山狩倉と称する藩直轄の山林があった。


春山村
はるやまむら

[現在地名]船引町春山

蘆沢あしざわ村の北、文珠もんじゆ山の南麓丘陵に立地。南端大滝根おおたきね川が西流する。中世は田村庄のうち。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「一丁二反 西(春カ)山共ニ」の注記で、「一町 七百文 はりやま」とみえ、紀州熊野新宮に年貢を納めている。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「九段 九百文 はり山、三段 三百文 西はり山」とみえる。


春山村
はるやまむら

[現在地名]今立町春山

領家りようけ村の東にあり服部はつとり谷の中央部に位置する。北は服部川を隔てて樫尾かしお村と接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高七八〇石。正保郷帳によれば田方四二七石余・畠方三五二石余。元禄郷帳では枝村の波垣なみがき・樫尾が分村し、三四一石余となった。しかし春山・波垣・樫尾三村はその後も「春山三ヶ村」と称し一村として扱われることが多く、享保五年(一七二〇)の鯖江藩成立後も同九年までの年貢割付状は高七八〇石、「春山村・波垣村・樫尾村」と一紙で交付されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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