後漢以降の,史書に現れる西方の国。後漢の班超の西域経営以後,西方に中国に劣らぬ文明国の存在が伝えられ,〈大いなる秦〉と呼んだ。その王安敦(すなわちローマ皇帝マルクス・アウレリウス)の使者と称する者も到来した。この呼称が,ローマ帝国全体をさしたのか,その一部の東方領だけかについては諸説がある。また語源についても,イラン語で西方を意味するdashinaの音訳とする説もある。南北朝期より東ローマ(ビザンティン)帝国は払菻(ふつりん)(ルーム)の実名で明確に認識された反面,大秦は空想の国となり,唐代景教の伝播とともにキリスト生誕地にあてられるなど観念化された。なお,宋代にはバグダードを特定する場合が多い。
執筆者:杉山 正明+堀 直
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中国、後漢(ごかん)の時代に交流があった西方の大国ローマ帝国をさす名称。『後漢書(ごかんじょ)』『魏(ぎ)書』などには「大秦国は一名犂鞬(れいけん)。海の西にあるので海西国ともいう。人民は端正、長大で、衣服、車旗が中国に似ていることから(秦に対応させて)、大秦とよんだ」と記録されている。ローマ帝国領東部のシリアやアレクサンドリアなどをさすという説もあるが、一般にはローマ帝国本土と考えるほうが妥当であろう。後漢の桓(かん)帝延熹(えんき)9年(166)に大秦王安敦(あんとん)(マルクス・アウレリウス・アントニウス)が洛陽(らくよう)に使者を派遣したことも伝えられている。
[鶴間和幸]
西域の国名。漢魏時代にローマ帝国の東方領土すなわちエジプト,シリア方面を大秦と呼んだ。後漢の西域都護班超(はんちょう)が部下の甘英を紀元97年に派遣したことが記録されている。のちに166年大秦王安敦(あんとん)の使と称するものが海路中国を訪れている。しかし南北朝時代に入ると大秦は空想の国となり,現実のローマ帝国は払菻(ふつりん)と呼ばれるようになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…西域経営で大活躍した班超の部将である。97年(永元9)に班超の命令で大秦国(ローマ帝国)への使者となって出発した。安息国(パルティア)を過ぎて条支(じようし)国まで進んだが,そこから大秦にいたる航海が危険であると聞いて引きかえした。…
…西安の陝西省博物館内の碑林に現存する。唐の781年(建中2),唐都長安の義寧坊にあった大秦寺に立てられたもので,明代の末年に同寺のあと金勝寺の境内から発掘された。景教とは当時の中国人がネストリウス派のキリスト教を呼んだ語であり,大秦とはその発生地ローマ帝国の東方領をさし,寺院を大秦寺(中国へは直接ペルシアから伝わったので,初めは波斯寺と称した)といったのである。…
※「大秦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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