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とうTang; T`ang

10件 の用語解説(唐の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


とう
Tang; T`ang

中国の王朝(618~907)。李淵(→高祖),李世民(→太宗)父子が隋末の群雄を平定して建国。三省六部(→三省六部制度),九寺五監および御史台などを中心とし,地方を道,州,県に分け,律令格式を整備した。

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デジタル大辞泉の解説

から【唐/韓/漢】

朝鮮半島にあった国名から》
朝鮮中国の古称。多く、中国をさす。また、中世以降、広く外国のこと。「―天竺(てんじく)」
「その夜の歌ども、―のも倭(やまと)のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ」〈・鈴虫〉
「日本の事は申すに及ばず、―南蛮まで参りたりとも」〈虎明狂・賽の目〉
名詞の上に付いて、朝鮮・中国、さらに、外国から渡来したことを表す。「―歌」「―衣」「―錦(にしき)」
唐織(からお)り」の略。

とう〔タウ〕【唐】

中国の国名。618年、李淵の恭帝の禅譲を受けて建国。都は長安。隋制を継いで律令制・均田制・府兵制などを確立。統一王朝は南北の文化の融合をもたらすとともに、領域の拡大と東西文化の交流は国際的な文化を発展させた。8世紀半ば以後衰退し、907年、20代哀帝のとき朱全忠に滅ぼされた。→後唐(こうとう)南唐
中国のこと。また、外国。

とう【唐】[漢字項目]

常用漢字] [音]トウ(タウ)(漢) [訓]から もろこし
〈トウ〉
中国の王朝の名。「唐詩盛唐入唐(にっとう)晩唐李唐遣唐使
中国のこと。「唐音唐人唐土唐本
でたらめ。「荒唐無稽(こうとうむけい)
だしぬけ。「唐突
〈から〉中国。「唐草唐手(からて)唐様(からよう)
[難読]唐棣花(はねず)唐土(もろこし)唐黍(もろこし・とうきび)

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百科事典マイペディアの解説

唐【とう】

(1)中国の統一王朝。李唐とも。隋末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して,煬帝(ようだい)の孫恭帝の禅譲を受け,618年に建国。李世民は兄の皇太子建成,弟元吉を殺して即位し,628年天下を統一,均田制・租庸調府兵制に基礎を置く律令政治を整え,その子高宗とともに突厥(とっくつ)・鉄勒(てつろく)・西域諸国・朝鮮などを討って版図を広げた。
→関連項目角杯画像石条坊制中華人民共和国突厥白村江の戦李【いく】律令制度

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世界大百科事典 第2版の解説

とう【唐 Táng】

中国,に続く統一王朝。618‐907年。首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。

とう【唐 Táng】

中国,五代第2番目の王朝。後唐ともいう。923‐936年。突厥(とつくつ)沙陀部出身で唐朝から李姓を賜った家系の李克用は,黄巣の乱平定に大功があり,河東節度使,晋王となった。彼は朱全忠(後太祖)と激しく覇を争ったが,その子李存勗(りそんきよく)(荘宗)はついに後梁を滅ぼし,洛陽を都として後唐を樹立した。ついで明宗がたつと,禁軍を改編強化し,財政基盤を整備するなど,五代で皇帝権が強化された時期の一つに数えられる。

とう【唐 Táng】

中国,五代十国の一つ。南唐,江南(国)ともいう。937‐975年。の実力者徐知誥(じよちこう)(李昪(りべん))が呉帝の譲位をうけてたてた国。唐の正統後継を自任し,北方の契丹との通好関係をもって中原の回復を意図した。その領域は呉をほぼそのまま継承して,富饒な江蘇,安徽,湖北,江西に及び,十国中最強であった。955年(保大13)以降は,北世宗の征討により淮南(わいなん)・江北の産塩地帯を含む経済拠点を奪われて衰亡にむかい,75年に宋に下って,3主38年で滅んだ。

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大辞林 第三版の解説

とう【唐】

中国の王朝名。
李淵(高祖)が隋の恭帝の禅譲をうけて建てた統一王朝(618~907)。都は長安。律令制・均田制・租庸調制・府兵制による中央集権体制を確立。文化が大いに興隆、当時世界の一大文明国となり、日本も遣唐使を派遣して文物・制度の導入に努めた。安史あんしの乱以降衰え、朱全忠に滅ぼされた。李唐。
五代の一。 → 後唐こうとう
五代十国の一。 → 南唐なんとう
転じて、中国のこと。また、外国。
[句項目]

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


とう

中国の王朝(618~907)。帝室は李(り)氏、14世代20代を数え、首都は長安。洛陽(らくよう)を東都、太原(たいげん)を北都とした。中国古代帝国の最後を飾る時代で、国威は周辺に広がり世界帝国の偉容を誇った。[池田 温]

歴史概観


創業
唐室の李氏は隴西(ろうせい)を本貫とし、西涼(五胡十六国の一つ)の王室の裔(えい)を称するが、北魏(ほくぎ)時代モンゴリアと接する北辺の軍鎮に駐屯していた軍人の家柄で、北周の宇文氏、隋(ずい)の楊氏と姻戚(いんせき)関係にあり、鮮卑(せんぴ)族と通婚して北族的要素も受け継いでいた。唐室やそれを中核とする支配者集団を、中国の歴史家陳寅恪(ちんいんかく)(1890―1969)は「関隴(かんろう)集団」と名づけ、広く学界で採用されている。彼らは6世紀を通じ陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)地方の土着勢力と融合した鮮卑・漢混血貴族グループで、武勇に優れ、漢代以来の華北の伝統文化を吸収していた。約400年続いた魏晋(ぎしん)南北朝の分裂を克服し、ふたたび大統一をもたらした隋朝が、急速な中央集権化の破綻(はたん)と高句麗(こうくり)遠征の失敗によって、末期は農民蜂起(ほうき)の怒濤(どとう)のなかで崩壊に瀕(ひん)し、各地に群雄が割拠した。当時、突厥(とっけつ)防衛の要衝太原に留守(りゅうしゅ)として駐在した李淵(りえん)父子は、天下の形勢をうかがい旗揚げし、突厥の援助を得て南進、数か月で長安を抑え、隋の皇子代王侑(ゆう)を擁立した。まもなく江都に遊幸中の煬帝(ようだい)が親衛隊の叛(はん)にあい弑(しい)されたと聞くと、受禅を強要して李淵(諡(おくりな)高祖)が唐朝を創建した。唐朝の国号は、北周以来李氏が唐郡公・唐国公に封ぜられたのにちなむ。太子建成と世民兄弟の活躍により、数年間のうちに王世充、李密、竇建徳(とうけんとく)、梁師都(りょうしと)、薛挙(せっきょ)、杜伏威(とふくい)、蕭銑(しょうせん)ら群雄を平定、全国を統一した。唐初の内政のスローガンは、煬帝の暴政を廃しすべて隋初の開皇の制に復帰することであり、隋の官僚や群雄配下の知識人も多く新王朝に吸収された。[池田 温]
貞観の治
兄の建成と弟の元吉を玄武門の変により打倒した李世民は、父の禅を受け2代皇帝(諡は太宗(たいそう))となり、房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)らの名臣をよく用い、民生安定と国威伸張に努め、貞観の治を現出した。いわゆる律令(りつれい)体制は貞観律令と引き続く永徽(えいき)律令・律疏(りつそ)の編纂(へんさん)を通じ完成期を迎え、広範な小農民を基礎とする大帝国の充実をみた。李靖(りせい)、李勣(りせき)ら名将の活躍により東突厥、吐谷渾(とよくこん)、鉄勒(てつろく)諸部、西突厥を相次いで撃破し、吐蕃(とばん)を抑え、高昌(こうしょう)から亀茲(きじ)(クチャ)、于(うてん)(ホータン)など西域(せいいき)の要地に前進基地を置き、漢代以来空前の版図を広げた。このような背景の下に、インドへ求法(ぐほう)の大旅行をした玄奘(げんじょう)や、三度インドに使者となり武功で名をあげた王玄策も現れた。高句麗に対しては太宗の親征も失敗したが、3代高宗期に新興の新羅(しらぎ)と連合してまず百済(くだら)を滅ぼし、腹背から攻撃を加えついに高句麗を倒した。しかし遺民の抵抗はなお続き、結局朝鮮半島では新羅の支配が確立し、高句麗遺民の一部はやがて靺鞨(まっかつ)と合流して東北に渤海(ぼっかい)国を形成するに至る。初唐から盛唐まで、各種族の内部自治を保障し、都護府の管轄下に名目的な州県支配を行ういわゆる羈縻(きび)政策はおおむね功を奏し、六都護府体制の下に世界帝国の繁栄が続き、通商は隆盛を極めた。[池田 温]
武周革命
この間、高宗の妃武照(則天武后)は、術策を弄(ろう)して皇后となり、やがて帝権をも左右し、ついに中国史上唯一の女帝として周朝(690~705)を建てた。武后の評価は善悪極端に分かれているが、六朝(りくちょう)以来の貴族官僚の支配が行き詰まり、新しい文臣官僚が進出し、また社会経済の安定につれて地主や商人が勢力を伸ばし伝統的体制にしだいに対抗するようになった時代状況を考えると、武后の破格の用人や旧来の法度を無視した諸施策も一定の積極的役割を果たしたとみなされよう。武后政権がついえたあとも、中宗の韋(い)后や安楽公主、太平公主らプリンセスの政権干渉が続き、国政は退廃したが、李隆基(諡は玄宗(げんそう))のクーデター(710)により彼女らは一掃され、やがて玄宗の即位とともに盛唐の華やかな幕が開かれた。[池田 温]
開元・天宝の治
姚崇(ようすう)、宋(そうえい)、張説(ちょうえつ)、張九齢ら名相にリードされた開元の時代は、人口増による耕地不足、商人高利貸などの農民収奪、逃戸の増加、兵農一致の府兵制の崩壊、仕官希望者の激増、上流の奢侈(しゃし)と貧富の懸隔など、増大する社会矛盾に対処して、国初の貞観の制への復帰を目ざし、武后期の潮流に対してむしろ反動的政策を推進した。一方、社会の変化に対応するため、専門能力に優れる実務官僚を登用し、律令制の外皮の下で、戸口の流動や流通経済の浸透に応ずる異質な新国制――使職の増加、税銭増徴、料銭支給、徴募兵制の普及、漕運(そううん)の改革――が形成されていった。玄宗治世の後半の天宝時代は、老境に入った帝の政務弛緩(しかん)と楊貴妃(ようきひ)とのロマンス、姦臣(かんしん)の聞こえ高い李林甫(りりんぽ)・楊国忠らの専権、辺防十節度使体制と藩将の重用などにより、中央の圧倒的強みが揺らぎ、地方勢力の比重が高まる形勢となり、深刻な危機が進行した。伝統的に史家が開元・天宝の間に時代のくぎりを置き、上昇下降の分界としたのも理由がある。[池田 温]
安史の乱
西域ではタラス川の戦い(751)で東進するアッバース朝勢力に敗れ、対外的にも退勢に向かい、755年「漁陽(河北省の郡名、安禄山(あんろくざん)の根拠地)の兵鼓」をどよもして十数万の漢・蕃兵を率いる安禄山の反乱が勃発(ぼっぱつ)し政局は激変した。太平に慣れた中央政府や正規軍は叛軍に対抗しえず、洛陽、長安も占領され、玄宗は四川(しせん)に逃れ、途上で楊国忠と貴妃は激高した兵士により、禍乱の源として血祭りにあげられた。一方、反乱に対抗して顔真卿(がんしんけい)らが義兵をあげ、許遠が(すいよう)の守城に死力を尽くすなどにより揚子江(ようすこう)流域を確保した唐朝は、西北で即位した粛宗(しゅくそう)の指導下に体制の立て直しを図り、叛軍将帥が内訌(ないこう)により安禄山、安慶緒、史思明、史朝儀と次々に交代したのにつけこみ、回(かいこつ)(ウイグル)の援兵を頼って乱の平定にこぎ着けた。しかし10年近いこの動乱を通じ唐前期の支配体制は決定的打撃を受け、律令制的人民支配は全面的に破綻(はたん)し、在地勢力による軍事的割拠が表面化した。さらに反乱討伐に辺防軍が動員されたすきをついて、外族が軍事的に優勢を占め、吐蕃が河西を席巻(せっけん)して一時長安まで侵入し、唐の勢力は西域からまったく駆逐された。漠北では突厥にかわった回が全盛となり、唐への兵馬援助につけこみ回人が華北に進駐し、また絹馬交易を通じ経済的に唐朝を苦しめた。西南では南詔がしばしば侵入の勢いを示し、8世紀後半以降はそれまでの漢族優位が全面的に逆転し、周辺諸民族の積極的活動期を迎えた。[池田 温]
節度使の台頭
安史の乱中に内地各所にも兵権を握る節度使が列置され、民政をつかさどる観察使などを兼ね、文人を幕下に召すとともに、牙(衙)(が)軍を中核とし鎮将以下の出先機関を設け、強力な支配権力を築いてしばしば唐朝に反抗するようになった。財政的にも両税の過半を留使・留州として保留し、中央へは3分の1しか上供せず、また領内でかってに通関商税などを賦課しながら、兵士の軍糧を中央に強要するなどして唐朝を窮迫させた。なかでも反乱の本拠となった河朔(かさく)地方の魏博(ぎはく)・幽州・成徳の三鎮では藩帥の世襲が実現し半独立地帯となった。かくて中唐以降は王朝中央権力と有力藩鎮の対立抗争が政治・軍事の主流となり、徳宗の宥和(ゆうわ)策にかわって憲宗の強圧策が採用され、唐は関中と江南などをおもな地盤としてなお1世紀存続した。[池田 温]
古代帝国のたそがれ
中央では三省六部が形骸(けいがい)化し、翰林(かんりん)学士ら内相の権力が外朝に拮抗(きっこう)し、そのうえ、皇帝に近侍する宦官(かんがん)が政治的実権を握り、神策軍(北衙(ほくが)禁軍の一)を率い、監軍使として出征軍を監察するなど兵権にさえ関与するようになった。中・晩唐の皇帝はみな宦官の擁立により帝位に上ったので、「定策国老」「門生天子」(宦官が試験官にあたる国家の元老で、天子は彼らに及落を決められる受験生の意)といわれた。かかる情勢下に中央官僚は科挙を媒介として党派をつくり、名高い牛李の党争が起こり、流動的な職任や行政方式が目だつようになり、宋(そう)以後の中世的官僚支配への傾斜を示した。盛唐以前に比し国勢規模は減半し中央の権威も相対的に衰えたが、陸贄(りくし)、裴度(はいど)、李徳裕、牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)ら著名な宰相が輩出し、在地に根を張る地主土豪層や富商・知識人らと連係を深め、唐朝の維持に努め、憲宗の元和年間(806~820)や宣宗の大中年間(847~859)のような中興をうたわれる安定期を生み出した。これら外朝の官僚と宦官の抗争は甘露の変(835)のような政変を挟みながら唐末に及んだ。地方では揚子江沿いの揚州や四川盆地の成都、華南の広州など、交通貿易の要衝は非常な繁栄をみせ、貨幣流通も農山村に浸透し、塩をはじめ茶・酒に及ぶ専売の利益が財政収入の主流となり、城市の伝統的市制が崩れて営業の自由が増すといった変化が静かに進行し、社会経済面でも中世的様相が漸次姿を現した。
 藩鎮は兵士の給養のため過酷な収奪を管内の農民・商人に加えたので人民の怨嗟(えんさ)は深まり、軍隊では下剋上(げこくじょう)の紛乱が後を絶たず、政治権力の分散多元化は政局をますます混迷に陥れた。やがて裘甫(きゅうほ)(ほうくん)の乱を経て僖宗(きそう)の乾符年間(874~879)に至り、災害の飢饉(ききん)も伴い、ついに王仙芝(おうせんし)・黄巣の大農民反乱が起こり、流寇(りゅうこう)が全国的規模で移動しつつ広範な民衆を抵抗に立ち上がらせた。専売に苦しむ住民と連帯関係にある私塩の徒がこの乱の中核となり、下級兵士や飢民を加えて一時は長安を占領し天下に号令する勢いをみせたものの、有力藩帥、とくにトルコ系沙陀(さだ)族出身の李克用らが僖宗に従って討伐に力を尽くしたので、内部分裂もあって農民軍は瓦解(がかい)した。その後は黄巣の部下で(べん)州の要地を押さえた朱温(のち五代後梁(こうりょう)の太祖)の勢力が強まり、やがて宦官を一網打尽にして実権を握り、ついに唐の禅を受けて五代の新局面に移行した。[池田 温]

制度

律(刑法)、令(れい)(行政法)、格(かく)(律令を補訂する勅令集)、式(官庁の例規・書式)が整備され、正一品(せいいっぴん)~従九品(じゅうきゅうひん)の流内、流外、雑任の3段階よりなる身分官人制を基軸とした唐の支配体制は、優れて法規の体系性と形式的整合性を備え、一貫した文書主義により統治技術として実効をあげ、周辺の東アジア諸国にまで継受された。皇帝の命令たる詔勅の起草にあたる中書省、上奏・詔勅案の審査検討に任ずる門下省、そして吏・戸・礼・兵・刑・工の六部(りくぶ)とそれを統括する左右司の都省よりなる行政中枢としての尚書省、以上三省を中心に、九寺、五監などの中央行政官庁、十二衛以下の近衛(きんえい)軍、全国10~15道の約300府州、千数百県に及ぶ地方行政機構と約600の折衝府(せっしょうふ)を通じ、帝国支配の貫徹を期した。盛唐の登籍戸数1000万に近く、人口5000万を数える大帝国は、流内京官二千数百人(うち五品以上の貴族官人約300人)、流内の外官一万数千人、流外その他下級吏員内外計五万数千人、そして底辺の雑任など職掌人約30万人の定員で統治されるたてまえであった。
 国政を総括し政策決定を行う宰相には、初唐は三省の長官が任じ、盛唐では中書門下の政事堂で皇帝の委任を受けた数名の高官が同平章事などの銜(かん)を帯び合議により政務を決した。安史の乱後、前期の三省六部二十四司の機構は漸次形骸化し、臨時の差遣により任ぜられる使職が発達し、ことに財政は判戸部、度支使、塩鉄使の三者を中心に運用され、やがてこれらが合体して五代には三司使が成立した。官人任用には、詩賦(しふ)の文才をおもに試験する進士科が重視され、父祖の官品による蔭(おん)の出身や経書の暗記を主とする明経科を押しのけるようになり、後期の宰相や学士の主流は進士出身者が占めるようになった。安史の乱後は、節度使以下の使職の辟召(へきしょう)(人材を招いて部下に任命すること)による任用が一般化し、さらに公課や役務を免れるため、商人・土豪などが官庁に名目的ポストを占める影庇(えいひ)さえ盛行をみるに至る。
 州県郷里を通ずる人民支配の網の目は全国を覆い、100戸1里、5里1郷を基準に毎年戸主の申告に基づいて計帳をつくり、また3年ごとに全戸口と各戸の已受田土(いじゅでんど)を網羅する戸籍を作製して中央に申報させた。成丁(せいてい)を中心に一定面積の田土を班給する均田制が定められ、それに対応して丁男1人当り毎年粟(あわ)2石(租)と絹2匹(8丈)、綿(まわた)3両あるいは麻布2端(10丈)、麻糸3斤(庸調)を徴収する税制が行われた。給田は一部の地域を除き実施困難であったにもかかわらず、徴収は実現された。両京を中心とする折衝府配置地域では3丁に1人の割で府兵が差点され、交代で首都の宮衛警備に上番し、また国境の防備に派遣された。地方州県では年間50日(一説40日)以内の力役が雑徭(ざつよう)として丁男と中男に課された。これら前期の諸制度は盛唐期に崩れ、780年に租庸調廃止と両税法の制定により大転換を遂げた。これにより課税対象は人丁から田地にかわり、従来すべて中央の差配にまった集権的財政は、以降在地の自主性が強化され、地方の留州・留使と上供に三分され、節鎮の分立の形勢に対応した。後期の蕃鎮の分立抗争は重税をもたらしたが、同時に特産品の生産を促し流通経済や貿易も発達し、越州窯・銅官窯の陶磁器、徽(き)州や蜀(しょく)の紙・文具、并(へい)州の鉄、華南の銅など重要産業の成長をみた。[池田 温]

文化

古代王朝文化の完成を迎えた唐代は、宗教・文学・美術各分野に多彩な黄金時代であった。初唐の『五経正義』欽定(きんてい)により、経学は思想的生命力の枯渇を免れなかったのに対し、伝訳の充実を背景として仏教は最高の人材を輩出し、吉蔵(きちぞう)の三論、智(ちぎ)の天台、玄奘(げんじょう)の法相(ほっそう)、道宣の律、法蔵の華厳(けごん)、善導の浄土と多彩な中国的教学体系を産出し、8世紀以降は南北の禅宗諸派が旺盛(おうせい)な活動を展開した。唐室の庇護(ひご)を得た道教も玄宗の天宝期をピークに伸張し、釈蔵に倣って道蔵を編成するに至る。後世への影響のとくに大きかったのは文学で、唐詩は中国文学の精華とされ、李白(りはく)、杜甫(とほ)、王維(おうい)、白居易(はくきょい)ら大詩人が競い起こり、今日まで5万首近い作品を伝存する。また中唐の韓愈(かんゆ)、柳宗元(りゅうそうげん)らが六朝以来の修辞技巧の勝った駢文(べんぶん)を排し、達意の古文を鼓吹してから新しい文風が広まり、同時に伝奇小説も流行し、庶民教化をねらう語物(変文)の普及がみられ、より広い階層に文学が受け入れられるようになった。中唐以降社会の変質に呼応して文化にも新傾向が芽生え、もっとも伝統的な経学にあっても経典に対する批判的検討が柳宗元らを先駆けとしておこり、また李(りこう)らによる禅家思想の摂取融合は、宋学の源流となった。学術面でも、制度史の範をなす杜佑(とゆう)の『通典(つてん)』や、賈耽(かたん)の地志地図が生まれ、絵画も前代の彩色絢爛(けんらん)たる壁画にかわり、心意を重んずる単色の水墨技法が発達し小品の鑑賞が広まり、書法も初唐に虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうようじゅん)遂良(ちょすいりょう)により古典的完成をみた流れが、顔真卿に至って均整より意志的表現が目だってくる。文化の担い手が貴族から士大夫(したいふ)、さらに富裕な庶民に広がるにつれ、その性格も変質を示した。
 他方唐代は東西文化交流の最盛期にあたり、侍衛の質子や使節・蕃将をはじめ来華外人もおびただしく、両京や主要都市に雲集し、仕官して顕著な事績を残した者も少なくない。凹凸画で名高い尉遅(うっち)氏父子や、インド暦法の瞿曇悉達(くどんしった)、密教を伝えた善無畏(ぜんむい)、不空三蔵はその代表であり、日本の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(朝衡)も高官に上り、王維、李白ら詩人と交わり、歴史に名を残している。
 唐初にササン朝ペルシアから王子が亡命してきたほか、中央アジアを経て(けん)教(ゾロアスター教)、波斯(はし)教(マニ教)、景教(ネストリウス派キリスト教)の西方3宗教が伝えられ、長安はじめ、若干の都市に夷(い)寺が建設され、マニ教、景教の教典が漢訳された。これら外教は在留外人の庇護下に栄えたが、9世紀の会昌の廃仏で大弾圧を被り、表面から姿を消した。イスラム圏との交渉が南海貿易を通じ深まると、広州などに蕃坊とよばれるイスラム商人居住区ができた。そのほか音楽、舞踏、雑戯、飲食など生活に密着した諸文化に外来要素が豊富に取り込まれ、エキゾチシズムの盛行が著しい。[池田 温]
『布目潮・栗原益男著『中国の歴史 4 隋唐帝国』(1974・講談社) ▽日比野丈夫編『図説中国の歴史 4 華麗なる隋唐帝国』(1977・講談社) ▽D. Twitchett ed. The Cambridge History of China vol. 3, Sui and T'ang. Part 1 (1979, Cambridge Univ. Press.)』

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世界大百科事典内のの言及

【唐】より

…首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。…

【地主】より

…〈地主(ちしゆ)〉という語そのものは近代以前の文献に見られるものの一般的ではなく,むしろ他の呼称が普及しており,それが本格的に用いられるようになったのは1920年代の現代農民運動以来のことである。
[唐以前]
 すでに春秋末期から戦国時代,前5世紀前半から前3世紀後半にかけ,各国の卿(けい),大夫(たいふ),士などの支配階級が国君からの賜与やみずからの武力行使によって私的に土地を領有しており,商人や地方の豪民の私的大土地所有も存在した。漢代とくに後漢では,地方における有力豪族の大土地所有が発達し,自営の小経営農民の土地所有と,年長者の統率する地域の在来の共同体の存立とをおびやかした。…

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