曲田村(読み)まがたむら

日本歴史地名大系 「曲田村」の解説

曲田村
まがたむら

[現在地名]安代町 荒屋あらや

曲田川に沿う山間に位置し、東と南は荒屋村、北はたきまた村に接する。正保国絵図に村名がみえ、高四七石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一九石余、七ヵ年平均の免は一ツ四分三厘七毛。同二年切支丹禁制ならびに忠孝奨励、毒薬売買禁止など、貞享五年(一六八八)捨馬禁止に関する高札が立てられている(「御領分高札集」盛岡市中央公民館蔵)。元禄十郡郷帳による〆高は田方九七石余・畑方五二石余で、当村に滝ノ又村が入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高一〇二石余・給所高一九石余。「邦内郷村志」には蔵分一〇七石余、家数四〇・人数一一六、馬一〇一。


曲田村
まがつたむら

[現在地名]石下町曲田

小貝こかい川西岸に所在。北は本豊田もととよだ村。「寛文朱印留」には古河藩主の叔父土井利房領としてみえる。「大正三年〜大正五年豊田村事蹟簿」(石下町民俗資料館蔵)によれば、寛永七年(一六三〇)伊奈忠治検地を受け独立村となり、村高三〇〇石余。天和二年(一六八二)幕府代官万年頼治・近山正友の検地があり、五六石余が増加。


曲田村
まがつたむら

[現在地名]南那須町曲田

あら川支流さかさ川源流域の丘陵地にあり、北は小鍋こなべ深作ふかさく村、東は森田もりた町。慶安郷帳では田高一九八石余・畑高一〇五石余、烏山藩領。天和元年(一六八一)下総関宿藩領となり(貞享四年「草札請取証文」綱川文太文書)、元禄郷帳では幕府領。宝永四年(一七〇七)旗本稲垣領となり幕末に至る。改革組合村では家数八。天保一四年(一八四三)の今市宿当分助郷(森良持文書)によれば奥州街道佐久山さくやま宿(現大田原市)の助郷村で、また同年の将軍徳川家慶日光社参の際には日光街道今市宿の当分助郷(勤高一五〇石)を勤めている。当地の丘陵野山へは周辺の村が刈敷を求めて入山しており、前掲草札請取証文によれば、天和二年より北方岩子いわこ村が野銭五〇〇文を払って秣場としていた。


曲田村
まがたむら

[現在地名]大館市曲田

大館盆地南東端部、西流する米代川が盆地に注ぎ込む右岸に位置する。上流軽井沢かるいざわ村。米代川の流路が北西に向きを変えるためその名があるという。集落北西部の河岸段丘上に縄文早・前期の土器片および土師器・須恵器片を出土する野沢袋のざわたい遺跡がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に曲田村二三石と記される。享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)の「曲田中山村」の項に「今度郷村帳之通御黒印両村被下候」とある。


曲田村
まがつたむら

[現在地名]深谷市曲田

上唐沢かみからさわ川左岸の沖積低地に位置し、古くから同川や丈方じようほう(福川)などが氾濫曲流を繰返した。深谷領に所属(風土記稿)。西は谷野やの村、南は宿根しゆくね村、村内を中瀬河岸なかぜがし(中瀬道)が通る。戦国期に深谷上杉氏の四天王の一人である岡谷香丹・清英父子の拠った曲田城(伊勢方城)の外郭にあたり、地内には上杉氏の騎馬教練場である桜田さくらだ馬場が設けられていたといわれ、現在の字桜町さくらまち辺りがこれにあたる。


曲田村
まがたむら

[現在地名]和島村中沢なかざわ

円蔵寺えんぞうじ村の南。正保国絵図に高九四石余がみえ幕府領。その後高田藩領となったとみられ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高八五石一斗余と八石九斗余の新田一ヵ所が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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