荒屋村(読み)あらやむら

日本歴史地名大系 「荒屋村」の解説

荒屋村
あらやむら

[現在地名]安代町 荒屋

安比あつぴ川上流に開けた沖積地と山間に位置し、東・西・南の三方は山に囲まれ、北は五日市いつかいち村。正保国絵図に村名がみえ、高一四二石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高六八石余とあり、七ヵ年平均の免は一ツ六分六厘七毛。同年に切支丹禁制ならびに忠孝奨励、毒薬売買禁止など、貞享五年(一六八八)に捨馬禁止、元禄一二年(一六九九)に人身売買に関する高札が立てられている(「御領分高札集」盛岡市中央公民館蔵)。元禄十郡郷帳による〆高は田方四五六石余・畑方一〇〇石余。鹿角かづの街道の往還筋にあたるところから、本村に駅場が置かれ、元禄一六年の伝馬条目(御領分高札集)によれば、寺田てらだ(現岩手郡西根町)までの一駄の駄賃は銭一四〇文、田山たやま村へは八五文であった。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]新湊市八幡町はちまんまち一―三丁目・越の潟町こしのかたまち

放生津ほうじようづ町に隣接し、うち川の北辺に広がる。東は放生津潟、内川の南対岸は法土寺ほうどうじ村、西は放生津町のうち四十物あいもの町、北はひがし町。村名名付帳(前田家文書)によれば、金屋かなや(現高岡市)の枝村であった。村名は荒畑開きのための荒屋敷に由来するという(野村屋旧記)。延徳三年(一四九一)三月当地を旅した冷泉為広は「ハウシ津」の普照院に宿し、「アラヤ」を経て海老江えびえに向かった。「アラヤ」に続いて「フシ権現ノ御トヒアル社アリ」とある(越後下向日記)正保郷帳では高八四石余、田方三町七反余・畑方一町九反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一七六石、免四ツ、小物成は川役七五匁、猟船櫂役二〇目(うち一〇匁出来)であった(三箇国高物成帳)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]内灘町西荒屋にしあらや

河北潟北部、同潟と日本海の砂丘地の間に位置し、潟に面して細長く集落を形成する。南は宮坂みやさか村、北はむろ村。天正一一年(一五八三)四月日の羽柴秀吉禁制(「菅君雑録」加越能文庫、小浜神社文書は一部火損)には「賀州石川郡」として「あら屋」とみえる。慶長六年(一六〇一)一二月、前田利長が石川・河北両郡一六ヵ村の浜方地子を免除したなかにも「あらや村」とある(加賀藩史料)。無高所で、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では小物成として地子銀三〇匁、外海引網役一五〇匁(うち三〇匁出来)、湖網役九四匁五分・外海船櫂役三二二匁、猟船櫂役一〇〇匁五分(うち三〇匁五分出来)・鯉鮒役三一匁五分(ほか四五匁五分退転)・六歩口銭一匁五分(出来)であった(三箇国高物成帳)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]門前町荒屋

大町おおまち村の南東、はつヶ川源流部の盆地と丘陵に立地。貞治六年(一三六七)一一月一〇日の尼見祐寄進状(総持寺文書)に「あらやのぢとうしやみぎしやう」とみえ、尼見祐が荒屋地頭長(長谷部)義勝の相伝していた櫛比くしひ内保うちぼ村内の地一〇〇刈を買取って総持寺法光ほうこう院に寄進し、長義勝も同年九月一四日内保村の地二段を同院に寄進している(「長谷部義勝寄進状」同文書)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]津幡町東荒屋ひがしあらや旭山あさひやま

津幡川と材木ざいもく川の合流点に位置。東は七野しちの村。「源平盛衰記」巻二九に、寿永二年(一一八三)五月、木曾義仲追討のために倶利伽羅くりから山に向かった平氏軍本隊七万余は「井家・津播多・荒井・閑野・竹橋(中略)森本」まで連なり、その間の「荒井」は当地のこととされる(加賀志徴)。延徳三年(一四九一)三月一二日、冷泉為広は米泉よないずみ(現金沢市)を発ち、「アラヤ橋・里」を経て竹橋たけのはしで昼食をとっている(越後下向日記)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]朝日村新屋あらや

三面みおもて川左岸に位置し、西は中新保なかしんぼ村に接する。北は三面川を挟んで布部ぬのべ村と対する。かつては東南の河岸段丘上の野中のなかに集落があり、寺屋敷の名が残る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「あゆ河分大国但馬分あらや村 中」とみえ、本納三七石三升・縄高一三三石三斗四升、家七軒とある。また小揚こあげ川・三面川を経て布部村へ達する道が描かれ、「大葉沢ヨリ□辺ヘ七里」とある。近世は初め村上藩領、のち幕府領となり幕末は米沢藩預所。正保国絵図では一四〇石余。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]富山市四方荒屋よかたあらや

北は四方・西岩瀬にしいわせ両町に通じる。神通川が現在より西を流れていた時期があり、のち川筋の東遷で生じた西岸の荒地を開き、村立てをしたといわれるが、慶長一〇年(一六〇五)一〇月の前田利長知行所目録(加越能文書)に、婦負郡荒屋村として高三三二石余とある。正保郷帳では北隣のくぼ村を含み高四七七石余、田方八町六反余・畑方二三町一反余、新田高一〇〇石。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領で、所属組は布目ぬのめ村に同じ。うしくび用水に依存した。寛永一〇年の村肝煎は市左衛門(「牛ヶ首用水管理約定書」牛ヶ首用水土地改良区蔵)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]九戸村荒谷あらや

山根さんね村の北、瀬月内せつきない川流域にあたり、傾城けいせい峠の東麓を占める。全域が丘陵地帯で、瀬月内川流域に耕地と集落があり、北は伊保内いぼない村。新屋とも記された。慶長六年(一六〇一)の南部利直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、「糠部之郡九戸之内新屋村」とみえ、小笠原美濃の知行地となった。正保国絵図に新屋村とみえ高八五石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では荒屋村とみえ田一三四石余・畑九〇石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田一二九石・畑八六石余。旧高旧領取調帳では荒谷村とみえ高一六六石余。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]鶴来町荒屋町・明光めいこう三―四丁目

手取川扇状地の扇央東部に位置し、西は知気寺ちきじ村。東端を富樫とがし用水が北流する。新屋とも記す。永禄一一年(一五六八)三月二五日の太郎衛門尉年貢請文(白山比神社文書)端裏書に「上林郷新屋村」とみえ、火御子ひのみこ(日御子)にあったと思われる白山荘厳講の免田二段の年貢二五束を未進していた同村の百姓太郎衛門尉が、荘厳講惣中に年貢上納を約している。天正一一年(一五八三)四月日の羽柴秀吉禁制(北徴遺文)には「新や村」とみえる。正保郷帳に荒屋村とみえ高五一四石余、田方三二町八反余・畑方一町五反。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]上越市荒屋

津有つあり地区の北端に位置しじゆう川が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「安田上総分此外拾四方分新井村 中」とみえ、本納七〇石五斗七升三合・縄高二二六石四斗三升七合三勺、家一一軒・三四人。正保国絵図には荒井村とみえ高二五〇石余。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では荒屋村とあり、高二五五石七斗余。天和三年郷帳では村高三七七石八斗余、うち野高三石九斗九升、ほかに新田高三四石六斗余。元禄郷帳には「古荒井村」の注記がある。寛政一二年(一八〇〇)の五人組帳控(国立史料館蔵)によると家数二八・人数二〇三。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]荒川町荒屋

西方を北流する旧胎内きゆうたいない川の右岸標高三―四メートルの沖積地にあり、北は海老江えびえ村、南は新保しんぼ村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分あらや村 下」とみえ、本納一一石一斗・縄高三五石九升一合、家五軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、文政一〇年(一八二七)一橋領。正保国絵図では高九〇石余。万治二年(一六五九)検地帳の写(石井伝三郎氏蔵)によれば高一〇九石余、田三町二反余・畑二町九反余、屋敷五筆。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]下田村新屋あらや

鹿熊かくま川上流にあり、下流は落合おちあい村、上流は鹿熊村、南の森町もりまち村・田屋たや村へ抜ける道がある。正保国絵図で高二五〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では一六四石三斗余・家二三戸。寛文(一六六一―七三)以後鹿峠組に属する。幕末の旧高旧領取調帳では新屋村と記す。集落対岸にある曹洞宗熊野山長見ちようけん寺は、もとは鹿熊にあり、天平元年(七二九)開基で、真言宗浄応寺と称したという。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]砺波市高波たかなみ

北高木きたたかぎ村の北にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に「あらや村」とあり、大滝組に属し役家数二。正保郷帳では高一六五石余、田方九町五反余・畑方一町五反、新田高四八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九二石・免四ツ三歩、小物成は野役六匁・鱒役一匁(三箇国高物成帳)。延宝五年(一六七七)には定免四ツ三歩のうち四歩が永引となる(「引免申渡状」菊池家文書)。役家数は延宝四年には七軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]金沢市荒屋町

金市新保かないちしんぼ村の北に位置。天正一四年(一五八六)前田利家の黒津舟くろつぶね権現(現内灘町)の再建を命じた村々のなかに村名がみえる(同年正月二二日「前田利家印判状写」黒津舟神社文書)。正保郷帳によれば高二四五石余、田方一五町七反余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二五五石、免五ツ九歩、小物成は山役三八匁(三箇国高物成帳)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]富山市西荒屋にしあらや

熊野くまの川左岸沿いに位置し、対岸および南東は八日町ようかまち村。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高三八二石余、田方二五町一反余・畑方三反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四七四石、免三ツ六歩、小物成は鮎川役四匁。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高三五七石余・定免三ツ三歩、新田高二〇石余・平均免八歩九厘余、定小物成銀四匁・柳差三匁余を課されていた。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]小松市上荒屋町かみあらやまち

木場きば潟の南方にあり、北西は二ッ梨ふたつなし村、北は戸津とづ村、北東は能美のみ粟津あわづ村。正保郷帳では高三四六石余、田方一六町八反余・畑方五町余。「江沼志稿」では高三七六石は免四ツ一分、新田高一四石は免二ツ、小物成に山役五六五匁余・茶役四匁・地子銀一〇二匁・鍬米一石がある。


荒屋村
あらやむら

[現在地名]小松市荒屋町

かけはし川支流の八丁はつちよう川右岸に位置し、北は高堂たかんどう村。当村付近は高低差がないため、大雨の度に氾濫を繰返した。正保郷帳では高二九四石余、田方一六町余・畑方一町三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三〇五石、免四ツ五分(三箇国高物成帳)北陸街道に沿うため、同七年六月二五日には道普請が命ぜられている(改作所旧記)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]富来町荒屋

谷神やちかみ村の北、米町こんまち川源流部に位置する山村。正保郷帳の高一二七石余、田七町四反余・畑一町余、免二ツ五歩七厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高一三五石、免三ツ五歩、小物成は山役一九匁・苦竹役二匁、鳥役一匁(出来)とある(三箇国高物成帳)


荒屋村
あらやむら

[現在地名]水原町荒屋

北は下金田しもかねだ村、南は中野目なかのめ村に接し、村内を安野あんの川が貫流する。正保国絵図に五〇石余とあり、新発田藩領。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)には家数三・人数一四とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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