有子山城跡(読み)ありこやまじようあと

日本歴史地名大系 「有子山城跡」の解説

有子山城跡
ありこやまじようあと

[現在地名]出石町内町

出石城下の南東方、北流する出石川の右岸、標高三二一・五メートルのしろ(有子山)山上にある。のち当城の山裾に出石城が築造されたことから、これと対比してたか城ともいった。ただし史料では当城も出石城・出石之城などと散見する。天正二年(一五七四)此隅山このすみやま城に代わる新城として山名祐豊が築いたといわれ、山名氏のあと城主は羽柴長秀(秀長)、次いで豊臣秀吉の部将青木勘兵衛尉秀以・前野長康(長泰)小出吉政と代わった。出石城下との比高は約三一〇メートル、城域は東西七四〇メートル・南北約七八〇メートルと広大である。主郭から南東、北、北西、西の四方向に延びる尾根に連郭式に曲輪を配置し、各尾根の最先端の曲輪の先に構築された大規模な堀切・竪堀で城域を設定しているところに特徴がある。ただし主郭周辺部は織豊勢力によって石垣の城に改修されている。

永禄一二年(一五六九)八月の此隅山城落城後、山名祐豊は但馬を脱出して泉州堺に逃れたが、織田信長の御用商人今井宗久の斡旋で同年冬に帰国を果し(今井宗久日記)、元亀二年(一五七一)一一月には一族の朝来あさご夜久野やくの(現山東町)城主磯部豊直とともに丹波山垣やまがい(現青垣町)を攻めている(同年一一月二五日「山名祐豊感状」岡村文書など)。天正五年一一月、羽柴長秀の第一次但馬進攻により南但馬は制圧された。長秀は北但馬の国衆に対する和平工作を進め、翌六年春、祐豊の子山名氏政が竹田たけだ(現和田山町)の長秀のもとへ参向している。同八年三月から四月にかけての長秀による第二次但馬進攻の時、当城には垣屋隠岐守恒総・同駿河守豊続が立籠っていたが、一戦も交えず落城したという(武功夜話)。なお落城は五月一六日との伝承があるが、「福成寺広原谷中」に三月晦日付で羽柴秀吉禁制(福成寺文書)が出されているので(現内町の福成寺は当時出石川対岸の弘原にあり、長秀の本陣になったといわれる)、落城は四月初旬であったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「有子山城跡」の解説

ありこやまじょうあと【有子山城跡】


山名氏城跡(やまなししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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