日本歴史地名大系 「有子山城跡」の解説
有子山城跡
ありこやまじようあと
出石城下の南東方、北流する出石川の右岸、標高三二一・五メートルの
永禄一二年(一五六九)八月の此隅山城落城後、山名祐豊は但馬を脱出して泉州堺に逃れたが、織田信長の御用商人今井宗久の斡旋で同年冬に帰国を果し(今井宗久日記)、元亀二年(一五七一)一一月には一族の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出石城下の南東方、北流する出石川の右岸、標高三二一・五メートルの
永禄一二年(一五六九)八月の此隅山城落城後、山名祐豊は但馬を脱出して泉州堺に逃れたが、織田信長の御用商人今井宗久の斡旋で同年冬に帰国を果し(今井宗久日記)、元亀二年(一五七一)一一月には一族の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...